私と中国








1.新聞の愉楽


今は新聞をとってない。月4,000円支払う価値がないと判断され、新聞代は2007年度予算を通過しなかった。それはカフェ代や新書代に取って代わられた。そういうご時世なのだろう。仕方ない。


ただそうやって10ヶ月という月日が過ぎると、我ながら少し淋しい気持ちがしてきて、最近ではまた日曜の朝だけは新聞を読もうと思い始めている。メディアで言えば、私はテレビよりも新聞の方が好きな質である。新聞を読むひと時は、どちらかと言えば好きな時間なのである。


私は日経新聞を好んで読んでいた。バリバリのビジネスマンではないし、株もやっていない。けれども日経を読んでいた。その主な理由は、意外と思うかもしれないが、日経は文化部が強いからである。特に松岡氏と浦田氏の記事が好きだった。最近は若い記者に経験を積ませるため書かせているのか、柔い記事が多いように思うけれども。


また新聞ならではの面白い発見もあった。新聞ではよくエッセイが連載されているのだが、新聞で面白いのは作家の書くエッセイではなく、例えば長塚京三(俳優)、三浦知良(スポーツ選手)といった非作家の書くエッセイであるということ。彼らの書く文章は実に活き活きしていて、読んでいて気持ちがよかったし、はっとすることがしばしばあった。一方、作家の書くエッセイは、一概には言えないが、あまり重要でないネタを切売りしている文章であったり、書くことがなく苦し紛れに書いているという息づかいが文面から感じられることが少なくなかった。私も作家の仲間入りを果たそうとしているのだから、このことは肝に銘じておかねばなるまい。


あと、これはもう分かりきったことかも知れないが、新聞のなかで記事の程度が一番低いのは政治面であるということ。政治面の記事は、以前よりはましになったと思うが、それでも、ほとんどがゴシップで、芸能スキャンダル雑誌の程度とどっこいどっこいである。「○○氏が最大派閥の××に働きかけた模様」、「○○の料亭で大臣がどうした、どうしなかった」。うんざりである。「○○部会で××という政策が構想されている。その概要は〜」、「○○氏が立ち上げた勉強会で××という報告があった。それは〜」という内容本位の記事は滅多に掲載されない。政治家のプロとしての一面がまったく見えてこない。これは政治部の記者が悪いのか、それとも政治家が悪いのか。おそらく両方だろう。


そんなこんなの新聞であるが、何はともあれ、それを読むことの最大の楽しみは、思ってもみない《出会い》であろう。私にとって張競氏との出会いがまさにそうであった。



2.張競氏との出会い

とくにはじめて「冬の日」(梶井基次郎)を読んだときの衝撃は強烈なものであった。自然と心象が互いに隠喩的な関係としてこれほど鮮やかに描かれた作品は見たことがない。
 「冬の日」には物語らしい物語はない。が、読んでいて何か軽やかな風が情感の深部に吹き込んできたようだ。この不思議な感触は新鮮である。とりわけ、それが思いもよらない言葉の無限花序として不意に現れたときは。
日経新聞2004年6月6日朝刊)


名も知らぬ中国人の学者が新聞に寄せた日本語の文章に、日本人である私は胸を打たれた。知性は国境を越える。この《出会い》の強烈な衝撃は今でも忘れられない。


当時、私はとある建築家の下で学んでいた。その師事した先生の影響もあり数寄屋を勉強していた。学生時分、他の建築学生と同様、妹島和世コールハースヘルツォーク&ド・ムーロンといった現代建築家の影響下にあった私にとって、数寄屋は正直難し過ぎた。「見付け7mmでいいですか」などと先生に確認したりしていたが、心のなかでは「細ければいいだろう」という程度にしか思っていなかった。何も分かっていなかった。


数寄屋は、我々が影響下にあったような建築家よりもさらにずっと前の世代、村野藤吾吉田五十八堀口捨己といった建築家の世代で事実上途絶えており、それ以後建築界の表舞台に現れることはない。今でもそうだろうが、大学の卒業設計でも数寄屋をやる人はまずいない。現在、建築学科を卒業していても数寄屋ができる人は皆無と言っていいだろう。


そんな数寄屋を私が勉強していたのは、建築実務を経験するうちに自らの気質が変化していたこと。デザイナー気質ではなく職人気質へと移っていたこと。また師事した先生の作風、そこで積んだ経験を生かすために、要するに私が建築でやっていくためには、数寄屋を克服するしかないと踏んでいたからである。


そんな最中、私の目に飛び込んできたのが張氏の文章であった。それを読んだ瞬間、《数寄屋(建築)》と《 セザンヌ(絵画)》と《 梶井基次郎(文学)》とが、私の頭の中で咄嗟に結びついた。難攻不落である数寄屋を読み解く糸口をつかんだ瞬間であった。成城にある『猪股邸』(吉田五十八)で腰掛けて庭園を眺めながら、このフレーズを何度も何度も反芻した。日本の伝統建築である数寄屋を理解する決定的なシュートを放つために、絶妙のアシストをしてくれたのが、張競氏という外国人であったということも、今までに味わったことのない更なる喜びであった。(※1)


そんな劇的な出会いから、かれこれ3年も経ってしまった。しかし、その長さはさほど問題ではない。読むか読まないかはタイミングだけの問題であって、張氏のことは常に心に留めていたし、今こうやって氏の著作を読む機会に巡りあえた訳だから。


アジアを読む

アジアを読む


張競『アジアを読む』。これは張氏が98年〜05年にかけて新聞に寄稿した文章を中心にまとめた書評集である。書評と言っても単なる本の紹介ではない。実に示唆に富む読みごたえのある1冊である。


張氏は比較文化論を専門とする学者であり、建築から歩み始め文学へ向かっている私とは守備範囲が大きく異なる。事実、この著書で紹介されている本のなかで私が読んだことのある本は、多和田葉子『エクソフォニー』の1冊のみであった。にも拘わらず、ここで紹介されている本をすべて読みたくなった。それらを実際に手に取ってみると気が変わるかもしれないが、少なくとも、本を紹介している張氏の発言には完全にやられてしまった。眼から鱗が落ちるとはまさにこのことか。例えば次のようなフレーズである。

フランス詩と俳句とは一見コンソメとミソのような関係だが、味の付け方一つで、案外相性が悪くないようだ。(※2)

日本人も中国人も漢字を使っているが、文字に対する感覚はかなりちがう。日本語を習い始めた頃の中国人に短文作りをさせると、「朝起きて、歯を磨き、顔を洗濯する」といった迷文がよく出てきたりする。同じ漢語の語彙だからといって、意味が通じ合うとはかぎらない。ましてや、覚えやすいということはまったくない。とくに初心者にとって、日本語の和語よりも、漢語のほうがまちがいやすい。(※3)

社会の底辺にいる人たちはたんに被害者として描かれたのではない。彼らは権力者に虐げられる一方、自分より弱い者をいじめる一面も作家は見落とさなかった。農民たちの素朴さ、善良さをひたすら美化するのではなく、目を覆いたくなるような残虐を許容し、ときにはみずから関与する心理にもきびしい解剖のメスが入れられた。(※4)


これだけではない。まだまだ他にも引用したい箇所は沢山ある。どこが秀逸というのではなく、始めから終わりまでずっとこの水準の記述が為されているのだ。皆さんにも是非手に取って読んでもらいたい1冊である。胸を打たれること必至である。



3.私と中国


昨今、社会情勢が急激に変化し、日本と中国との距離はぐっと縮まりつつある。化学製品を扱う会社を経営している叔父は数年前に中国に工場を持ち、今ではアメリカとの行き来よりも、中国との行き来の方が多くなったそうだ。ビジネス界にいる人は、少なからず似たようなものなのだろう。


私の場合はちょっと違う形であるが、やはり中国との距離が縮まりつつある。その一つがここまで語ってきた張氏との出会いによってである。今まで私の視野にまったく入ってなかった中国文化が、氏との出会いによって、今ではもう無視できない興味の対象になっている。今後は、中国文化に関する書籍を読む機会が増すことだろう。


もう一つは、友人が中国の方と結婚したことによる。その相手の方が素晴らしい人なのだ。中国で東洋医学を修得して来日。日本でも大学で学び、卒業後、日本で整体の医院を開業。そして今年、鍼灸師の免許も取得して治療の幅を広げたそうだ。こうやって1歩1歩、前進していく意識が明確な彼を、私はすごく尊敬しているし、私もそうありたいと思っている。それに彼と話していると、節々に知性が感じられて、なんだか張氏と同じ香りがするのがまたうれしい。


もちろん中国にもいろんな人がいて彼らのような優れた人だけではないだろう。決していい面ばかりではないだろう。それでもなお、私がまだ行ったことのない見知らぬ世界にこんな優秀な人がいるのかと思うと興味は尽きない。遠くない将来、私も中国と行き来するようになっていることだろう。



※ photo by montrez moi les photos
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※1 その後、私は建築を断念した。そのことについて悔いはない。ただ《数寄屋》については、建築という形ではなく文章という形になるとしても、何らかの形で結果を出したいと思っている。

※2 張競「ミソとコンソメの思わぬ相性『ひびきあう詩心 ー 俳句とフランス人の詩人たち』(芳賀徹著)」『アジアを読む』みすず書房 所収 p.154.

※3 張競「明治以来の「国語改革」は何を招いたか 『漢字と日本人』(高島俊男著)」『アジアを読む』みすず書房 所収 p.135.

※4 張競「歴史描写と幻想的現在とが響き合う 『神樹』(鄭義著)」『アジアを読む』みすず書房 所収 p.60.