リコール問題以前のトヨタ問題を問う




 




 はじめに.



いま世間を騒がせているリコール問題も問題と言えばそうだけど、我々のトヨタ(正確に言えば大企業全般)に対する憤りはそれ以前の問題である。


「ムリ・ムダ・ムラ」を徹底的に排除するという《トヨタ生産方式》はビジネス界でも高く評価され、多くの企業で実践されている。なるほど、その立案者である大野耐一氏が記した『トヨタ生産方式』(ダイヤモンド社)は示唆に富んだ良書である。



トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして

トヨタ生産方式――脱規模の経営をめざして






 1.《トヨタ生産方式》を個人体験から考える



しかし《トヨタ生産方式》にはいくつかの疑問がある。その問題についてこれから検証したいと思う。まず、企業ではないので恐縮だが、私個人も自己改善策として《トヨタ生産方式》のような試みを実践したことがある。以前、建築設計事務所に勤めていた時の記録が2点ほど残っているので紹介したい。



 (2004年9月5日 日記より)


終電で帰っているという話は同業の知人からよく聞くけれども、始発で通っているという話は一度も聞いたことがない。設計、特に芸術的創造を謳っているアトリエ系事務所では通例とも言えることだが、これは創造的営為の宿命を語っていると同時に、事実上のシステムの破綻をも語っている。


現場が動き出すと、このような自身のかかえる問題が露呈してくる。一言で言えば、仕事が回らないのである。いやいや、それ以前を言えば、仕事を回す体ができていないのである。だから、ただ仕事時間を延ばすという発想は事実上破綻してしまう。以上のことを整理して自身に課すのは、


1.体づくり
2.決められた時間内に仕事を回す


となり、タイムテーブルが以下のように作成される。


6:00 起床
6:00〜7:00 ジョグ、シャワー
7:00〜8:00 朝食、日誌
8:00 出発
8:30〜9:00 そうじ
9:00〜20:00 仕事
20:30〜21:30 夕食
21:30〜23:00 入浴、家計簿、読書、音楽鑑賞
23:00 就寝


実際、このスケジュールがこなせたとしても、仕事が回るかといえば、何とも言えない。決められた時間内に手を抜かずに仕事を回すというのは、まだまだ想像上の領域であって、創意工夫が必要である。

設計事務所の仕事量は多く、アトリエ系の場合、朝は遅くて10時スタートだが、夜も遅く10時、11時まで、ひどい所では深夜1時、2時まで作業するのが常態化している。しかし、こうムリな生活を送っていて健全性をちゃんと維持できているかと言えば甚だ怪しい。パソコンの前でうとうとしながら作業しているなんてことも度々ある。


この時、私が一番恐れたのは判断ミスである。現場が動き出すと設計者は監理業務を行うのだけど、何をするかと言えば、現場から上がってきた図面をチェックしてハンコを押して現場にゴーサインを出すのである。ここでチェックミスをしたら設計事務所の1件、2件なんか簡単にふっ飛ぶぐらいの損失を出してしまうことにもなるし、人命に関わる重大な問題にも発展してしまう恐れがある。実際は設計者だけでなく、現場監督、各担当者、職人と何段階もチェックが入った上で現場は動くので、そう簡単には大問題にはならないのだけど、いざ問題が起こって監理責任を問われるとひとたまりもない。このような重大な判断をせねばならないのに、毎日ムリな生活を強いて意識が朦朧としていたらさすがに不味いだろう。そう思って生活を切換えた(ムリ・ムラを排除した)のだ。


ちなみにその後、次のような記録も残っている。



 (2004年11月20日


営業時間の変更
AM9:00〜PM8:00から
AM7:00〜PM8:00へ
やっぱり上では無理。

ただし、これは現場が一番忙しい時の話であくまでも期間限定であった。



このような話はトヨタの現場でも徹底されているようだ。良いことだと思う。ただ一つ断っておくが、私が以前、いま勤めている店で「残業をするな」という指示が出たことを批判したけれども(2010年1月21日付日記参照のこと)、これは次元が違う話なので(経営側はムダをカットしているつもりだけど、現場に対してムリを強いているので)混同して欲しくない。この点だけ注意しておけば、この話は容易に理解できるだろう。



さてこの点は良いとして、トヨタ等の企業レベルで問題となるのが次の話である。まずは私個人の話として読んで頂きたい。



 (2005年11月4日 日記より )

 タイトル:最小限



物はどんどん増えていく。
学生時代は蔵書数が800冊に至った。しかし、そのうち読んでいたのはせいぜい20〜30冊程度、稼働率2.5%、ホテルを例にとれば採算ラインは80%だから救いようのない倒産状態であった。ただでさえ狭いアパートの、天井に迫る高さの本棚にぎっしり並べられた本は、何か間違った知識欲、所有欲、達成欲をかき立ててくれたが、冷静に考えれば圧迫感を感じさせるし、場所を取って邪魔であった。本を置くために場所を取っていると考えると、やはり稼働していなければそれは負担でしかない。


本を読むためには絶対的な時間が必要である。また難易度が上がれば時間もかかるし、お手上げなんてこともある。その手の本を数冊ストックしておくのは良いとしても大量に保有することは致命傷である。冷静に考えれば明らかなことだが、それが分からなかった。学生時代は勉強会等で情報が多量に舞い込んで来て、テーマも多岐に渡った。また全般的に難易度も高かった。情報自体は的確だったので、それをもとに入手した本はどれも重要であり、本自体の価値から判断すると手放せなかった。問題なのは私自身のさばける量(力量)との釣り合いであった。私の力量と見合った難度と量、これがうまく保たれている必要があったが、それができていなかったのである。


ちょうど設計事務所に勤め始めた頃、学生時分のように自由な時間がとれなくなり、本棚にある本を読めないことが決定的となったので、自分の興味が高いテーマ順に並べ直して順位の低いテーマの本、また明らかに難しすぎる本を古本屋にリリースした。一度でなく十数回に渡って段階的にリリースしていった。しかし、そうやってリリースしながらも、懲りずにまた新たに本を購入していた。そんな本のなかには、明らかに読めないような難解な本で、その後リリースすることになってしまう本もあった。そんなことを繰り返しながら、手元に20冊程度のみを所有するまでに絞られた。


勤めていた時は、逆にリリースすることに病的だったかもしれない。過度に忙しく、時間にも心にも余裕が全くなかった。仕事が忙しい上に、仕事上覚えねばならない専門知識が多々あり、人文、学術系中心だった今までの本は、仕事に関する限り何の利益も上げない邪魔物であった。そういう本を読むことは、勉強ではなく、仕事からの逃避であり罪であった。ある意味では重要な本だったので古本屋に売らず実家に送ってストックすることもあったが、ある時、その手の本は絶滅した。それぐらい追い込まれていた。本棚には実務上必要な専門書が数冊置いてあるだけになった。


しかし、実務的な専門書ばかり読むというのもつらく、うまく行かなかったので、新たな妥協点を求めて読書に対する考え方を一新した。日曜日だけは実務とは関係のない本を読んで良いことにした。ただ、一日しか時間がとれないのだから、人文系の専門書を読むのは無理だ。それにただでさえ能力的に背伸びし過ぎているというのも問題であった。そのため、読書の対象をこれなら読めそうだという新書にレベルを落としたのだ。新書は人文系の重要文献を読むようにポイントを稼ぐことにはならないが、読む力はめっぽう伸びた。読んだら当然、色々と考えるし、またそれが次から次へとサイクルしていくので有機的なリズムが形成された。これは本当に大きな力になった。当時はまとまった量の原稿を書くことはなかったので、読んだらちょっとした感想をブログに書くか、あるいはマーカーを引いた箇所だけを読み返してすぐに捨てた。もともと仕事からの逃避としての読書だから、実務に関係ない、そういった本が本棚にあるのが目に入るだけで罪の意識に駆られたからだ。やはり病的だった。


今はそういう状態も越えた。今後は文章を本格的に書く体制に入る。当面、学生時代のような背伸びした難書を買い込んだりはしないが、読んで戦力になると思った本は本棚にストックして行こうと思う。まとまった文章を書く場合にはやはり必要になるだろうし、それによって文体は幾分おとなしくなってしまうだろうが、それはそれで良いとしようではないか。

それで2010年2月11日現在はどういう状態になっているかと言えば、蔵書数808冊(作品集等を除く)、既読数327冊、稼働率40.4%と再びヤバイ状態になっており、ワンルームアパートの蔵書キャパを超えているし、稼働率の低さも問題だと痛感している。改善せねばならない。。。



現状の話はさておき、これはあくまでも私個人の話であるということをまず確認されたい。これを企業単位で適用しているのがトヨタ等の会社という訳だが、その場合どういった問題が起こるか? みなさんも少し考えてみて欲しい。






 2.《トヨタ生産方式》がはらむ諸問題






 (問題1)最適化と資本主義システム



まず指摘できるのは、《トヨタ生産システム》に見られる「ムリ・ムダ・ムラ」を排除する《最適化》は、「大量消費・大量生産」を前提とした《資本主義システム》と折り合うのか? という問題である。


私の場合、この後どうなったかと言えば、それまで欲望が先走って間違った根拠に基づき月々の書籍代を2,3万は必要であり、これだけは譲れないとして、実際にそれだけの本を買っていた(読んではいない)。しかし、このような《最適化》を行った以後は本の予算はぐっと減った(今現在は執筆業を立ち上げる体制にシフトしているので予算もそれ相応にアップしている)。つまり問題なのは、《最適化》を徹底すれば行き着く先は「少量消費・少量生産」であって、これは「大量消費・大量生産」を前提とした《資本主義システム》の論理に相反するのではないか? これを個人ではなく企業単位で実践するのは果たして良いことなのか? トヨタだけならまだしも次々と追従する企業が増えれば社会全体のバランスはどうなるのか? といったことである。



 (問題2)人のモノ化



次に、指摘できるのは「この話は本だから許されるけれども、人でも許されるのか?」という問題である。「本だからバンバンリリースしてもいいかもしれないけど、果たして人をバンバン切ってもよいのだろうか?」。例えばかつての日産やダイエーの場合は仕方がないと言えるだろう。もう会社が潰れるかどうかの瀬戸際だったのだから。人員削減はあくまでも会社再建のための最終手段であった。


他方、トヨタの場合はどうか。過去最高益を記録し続け、それが減益へ転じた途端に派遣社員をカットしようとしたのだ。この場合の人員カットは会社を存続するための最終手段とは言えないだろう。この経営判断は、「トヨタにとって人は物同然なのか」と批判されても仕方ないだろう。作業面ではニンベンのついた「自働化」を要求するにも拘わらず、待遇面では「人」からニンベンをとった「 」として一掃してしまう。人さらいもよいところである。シャレになってない。これはトヨタのいわゆる優秀な方々が《トヨタ生産方式》を立案者の大野耐一氏の意向に反して、アホの一つ覚えのように極端に押し進めた誤った結末であろう。



 (問題3)日本の産業の二重構造問題



さらに指摘できるのは「このようなスリム化をトヨタはどこまで徹底できているのか?」という問題である。人から聞いた話なので、確かなことは言えないが、端的に言えば「トヨタ本体のみ」のようだ。《トヨタ生産方式》の敢行によって潤っているのはトヨタだけであって取引先や下請企業はその恩恵を受けるどころかしわ寄せをくらっているらしい。


例えば、良く知られているようにトヨタ本体は徹底した在庫管理を行っており、また注文に基づいて生産する体制を採っているので余剰在庫が発生せず、ほとんど在庫を抱えない状態をキープしている。しかし、こんなウマイ話があるだろうか? 確かに生産者側として「1ヶ月後に100台くれ、いや10台だけくれ」という変動的な注文ならば対応できるだろう。でもこの「1ヶ月」というのは、どの工程まで遡ることができる話なのだろうか? トヨタは下請企業に対しても十分な余裕をみて発注しているのだろうか?


私が聞いたところによればNOである。下請企業に対しては無理難題をふっかけているようだ。極端に言えば「明日は100個」と言う時もあれば「明日は1個だけ」と言う時もあるという有様。つまりこのような「ムリでムラのある」注文に対応するために下請企業は常に100個作れるという「ムダ」な状態をキープしておかねばならないという訳だ。トヨタ本体は在庫を抱えず「ムリ・ムダ・ムラ」を排除するのでどんどん健全化するかもしれないが、下請企業は、ただでさえ体力がないにも拘わらず、トヨタ本体が在庫を抱えてくれないので、その分までも在庫を抱える負担を強いられ、慢性的な「ムリ・ムダ・ムラ」状態に陥っているという訳だ。


また最高益を記録し続けていた最中でも、下請企業は利益率の低い仕事を自転車操業のような状態で行っていたらしい。「このような好況はいつまで続くかわからない。だから気を緩めず、絶えず倹約に努めなさい」というように。ごもっともである。転ばぬ先の杖とはよく言ったものである。人生山あり谷あり、野球で言えば、好調時は打率が4割台で推移しても、突然スランプになって2割台に陥ってしまうこともある。そういった増減を見越しつつトータルで3割をキープしようというのがプロの仕事と言えよう。企業経営も同様である。


しかしだ。トヨタの場合は過去最高益(打率4割状態)であっても下請企業への支払は不況時(2割台・スランプ時)の水準に抑え、そしていざ2割台に陥るとどうか? 転ばぬ先の杖の精神で好調時に貯金していた利益を切り崩して下請企業への支払いを補填するかと思いきや、ただ単に「バイバイ」という感じだ。トホホ、、、






 3.リコール問題以前のトヨタ問題を考える



このような有様がここ最近のトヨタから顕著に感じられたので、我々は怒っているのだ。私は車を所有していないし、地球環境を考えれば車は少ない方がよいと思っている。「あんなにアホみたいバカスカ作ってどないすんねん」って冷ややかに見ていた。けれどもトヨタが儲かれば国の税収も増えるし、トヨタで働く人や関係する仕事をしている人々の生活も潤うし、経済的な波及効果も見込めるからという理由で「がんばれよー」ぐらいの気持ちでいた。でも最近の動向を見て、トヨタという会社は人々の生活を支える力が思ったほどないし、その意識も薄いように感じられ、だったら応援するのもやめようかという気持ちになった。一言で言えば「失望」したのだ。


こうやってリコール問題以前のトヨタを検証しても、克服せねばならない多くの問題が浮かび上がってくる。今一度まとめてみる。



A.過去最高益が減益に転じた途端の人員カット


B.資本集約型(大手)と労働集約型(中小零細)の二重構造への依存


C.広い意味で人々の生活を支える機能の放棄

ただこれは《トヨタ》だけの問題でなく「資本主義システムの制度設計の欠陥」がもたらした問題とも言える。例えば「A.過去最高益が減益に転じた途端の人員カット」というのは信じ難い話(人命軽視)だが、これは昨今の金融システムの確信犯的な設計ミスのとばっちりとも言える。少し長くなるけれども、本山美彦・萱野稔人金融危機資本論』(青土社)から引用する。



金融危機の資本論―グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか

金融危機の資本論―グローバリゼーション以降、世界はどうなるのか



本山 株というのは、もともとは、この企業が好きだから、ということでじっと長くもっているようなものでもあったはずです。しかし実際の流れとしては、どんどん金融が短期化していきました。


萱野 むかしは株券をタンスにしまって、というのも多かったんですけどね。しかしいまではそれも電子化されてしまって、長期間保有するということがますます起こりにくくなりました。


本山 いまやデイ・トレーダーたちがネット上で電子化された株を秒単位で売買しています。株主は企業が好きかどうかではなく、上がりそうか下がりそうかだけで株を売買します。そうなったら安定しなくて当たり前です。





  長期金融から短期金融への転換によって何がおこったのか



萱野 要するに、金融の基本が間接金融から直接金融へと移行したことによって、金融そのものが短期化していったということですね。では、長期金融から短期金融への移行によって何がおこったのか。これはひじょうに重要な問題です。


日本ではもともと、日本長期信用銀行などの金融機関が長期の融資を引き受けることで、重厚長大型の基幹産業がなりたっていました。長期にお金を貸す、というのは誰にとってもリスクですし、そのリスキを回避しようとすれば必然的に金融は短期化していきます。しかし、長期的に産業戦略を組み立てなければならない鉄鋼や重機器といった産業分野は、あまり儲からないうえに長期の融資を必要とする。そうした、民間の金融機関があまりやりたがらない長期的な金融をおこなってきたのが、政府系の金融機関でした。


こうした長期の金融システムが短期化していくということは、要するに、株や証券によって金融市場から直接調達してきた資金で事業をまわさなくてはならなくなるということです。それによって、じっくりとものをつくる産業での金融基盤がくずれました。


本山 長期金融から短期金融への移行がなされるさいに、日本の戦後の金融システムは「護送船団方式」とよく揶揄されましたが、私はその方式はひじょうに見事だったと思っています。なぜならそこでは「よーい、ドン」であらゆる産業がいっせいに競走するのではないからです。たとえば大手企業には都市銀行、中小企業には信用金庫、鉄鋼などの基幹産業には政府系の日本長期信用銀行、というように、それぞれの産業の特質にあわせて金融機関が整備されていました。


なぜこうした方法がとられたのかというと、産業ごとに儲かる産業、儲からない産業という不公平があるからです。儲かる産業というのは、われわれ素人相手の産業です。われわれは自動車の価格がどこまで適正価格であるのかわかりません。いっぽう、儲からない産業とはプロ相手の産業です。新日鐵が世界に冠たる技術をもっているからといって、トヨタからそっぽを向かれたら何もできません。戦後の日本の金融システムがうまくいっていたのは、儲からない産業には日本長期信用銀行などの政府系銀行がついて産業間の不均衡を調整していたからです。こうした方法によって、金持ちのお金が社会にうまく流れていたんです。


実は私、学生時代、日本長期信用銀行にいきたかったんですよ。成績が悪くてとてもではないが無理だと先生から言われましたが、とても人気があった就職先でした。


日本の金融は、産業の業態や特徴にあわせて、信用金庫とか都市銀行とか農林中央金庫とかいうようにいろいろ分かれて、それぞれに棲み分けをしていました。だからこそアメリカではとうのむかしに廃れてしまったような重厚長大な基幹産業が日本では育っていたんです。しかし、アメリカが金融機関の自由競争や総合化を強く求めてきたことをきっかけに、それも崩壊してしまいました。


産業の特徴にあわせた金融機関の棲み分けを一切なくして「競争だ」となったときに、どこが真っ先に悲鳴を上げるのかといえば、それは日本長期信用銀行であり、日本興業銀行であることは目に見えていたはずです。儲からない産業に貼り付けられているわけですから。実際、それで長銀もつぶれました。あれから私はナショナリストになったのかもしれません。長銀アメリカの銀行に買収されていたのならまだ諦めもつきますが、銀行でないものに買収されたんですよ。


萱野 憧れだった銀行がファンドに買収されてしまった・・・。


本山 そうです。そして転売され、私の友達もみんなクビになりました。それは悲惨なものでした。そのファンドのアジア総括責任者が、あの父ブッシュ元大統領でした。あまりに世界の批判を浴びたので辞任しましたけど。


長期金融が短期化したということは、紙切れ一枚でものごとが左右されてしまうような、信頼関係もモラルもない状態になりつつあるということです。





  「年次改革要請書」とアメリカ通商代表部



本山 このようにアメリカは、日本の経済力を抑え、アメリカ金融業界の支配力を強化するために、日本の金融システムを解体しようとしてきたわけですが、しかしそういった情報をわれわれは与えられないまま、規制緩和や民営化への是非を問われてきました。この点、マスコミの責任は大きいと思います。郵政民営化だって、はっきり言えばAIGアフラックの圧力です。そのときも、郵政民営化の審議がどこでおこなわれているのかの情報は与えられていなかった。


萱野 郵政民営化は「年次改革要請書」をつうじてアメリカ政府がずっと日本に要求していたことですよね。


「年次改革要請書」というのは、クリントン政権下の1994年から始まったもので、日本政府に対してあらゆる分野でここを規制緩和しろとか構造改革しろとか、はては行政改革しろとかいうアメリカの要望がびっしり書かれている外交文書です。いちおうこの要望書は、建前的には相互的なものとして、日本政府も毎年アメリカに提出することになってはいるのですが、実態は完全に一方的なもので、アメリカが自らの要望を日本につきつけるための文書になっている。なにせ、この文書をだしているアメリカ通商代表部(USTR)は、要望どおりにことが運ばれないとき、あの悪名高い通商法スーパー301条にもとづいて、関税引き上げなどの一方的な制裁措置をとることができますから。


郵政民営化をもとめるアメリカの一番のねらいは、日本の保険市場にアメリカの保険会社が参入することだったといわれています。実際、「年次改革要請書」では、郵政民営化について外資系保険会社にも意見を言わせろということが書かれていたりする。郵政公社郵便貯金や簡易保険に集められていたお金は300兆円を超えていました。みんな安心できる郵便局にお金を預け、郵便局の保険を買っていたのです。しかし、アメリカの保険業界からすれば、これがあるかぎり日本の保険市場に参入することができない。だから郵便局を民営化して保険市場を開放しろ、というのがアメリカからの要求でした。


本山 日米安保条約改定のさいのアメリカ側の立役者はクリスチャン・ハーターという人ですが、彼はまた通商代表部の創設者でもあります。


日米安保条約の第二条は要するに、「日米経済は一体だ」ということです。この経済まで包括した一文によって、日米安保は軍事だけではなく経済の問題にもなりました。この条項さえ定まっていれば、あとは「日米安保条約に従って」ということにできますから。「年次改革要望書」のような露骨な要請を日本が拒否できなかったのは、日米安保によるものだといえるでしょう。





  戦後日本の資本主義



萱野 先ほど本山さんは、長銀がファンドに買い取られたのをきっかけにナショナリストになったとおっしゃいましたが、それ以前はどんな考えをおもちだったんですか?


本山 むしろ反日でした(笑)。その出来事をきっかけに長銀を調べだして、日本の金融システムが棲み分けをきちんと作っていたのだということがわかってきたんです。むかしの日本の政治はちゃんとしていたんじゃないか、と。有澤廣巳とか大内兵衛とか、そもそも審議委員会からしてみんなマルクス主義者でした。傾斜生産方式をとっていたし、経済安定本部では利潤分配論が盛んでした。つまり儲けをシステム的に従業員福祉にまわすということがちゃんと考えられていたわけです。日本は最初から「労使協調路線」的なものをもってこようとしていたんですね。


萱野 「最初から」というのは「戦後の最初から」という意味ですよね。


本山 ええ。戦前は大企業の独占は当たり前の、もっとアメリカ的な市場原理主義だったはずです。それが戦後、ガラッと変わった。激しい労働運動の影響もあるかもしれません。


萱野 あとは第二次世界大戦における総動員体制によってそうした基盤がつくられてきたという側面もありますよね。国民を戦争へと総動員するためには、たとえば働き手を徴兵されてしまっても家族が食っていけるように、国民のあいだで一定の再分配をおこなう必要がでてきます。そのため、総動員体制をつうじてさまざまな産業が再編成され、福祉国家にむかうような枠組みができた。そして、戦後になってその枠組みの軍事的な部分が取り除かれ、福祉国家的な土台だけが残ったということですね。


本山 そう思います。大阪工業会などは戦争のためにつくられましたが、戦後も残って財界の話し合いの場になっています。


そういう日本の特殊な資本主義が一変したのは小泉改革からでしょうね。しかしその路線も完全につまずいて、かつてのあり方が見直されつつあるのが現在の状況ではないでしょうか。





  時価会計の衝撃



本山 こうした流れのなかでアメリカが「何でもあり」のやり方になってくるのは1990年代後半ぐらいからです。この10年、具体的には1998年以降、アメリカはグローバル・スタンダードとして、特に日本や韓国に金融の自由化を押しつけてきました。ひじょうに象徴的なのが時価会計の導入です。すなわち簿価  買ったときの値段  ではなく、時価  今売ったらいくらになるのか  をはっきりさせろということです。こうして体力がないときに時価会計を導入されたことで、日本の金融機関や企業はバタバタ倒れ、アメリカのファンドなどに買収されていきました。


萱野 もともと日本の企業会計は、土地や株などの資産の計上は、買ったときの価格でおこなえばよかった。ところが時価会計というのは、そのときの市場の値段で資産を計上しなければならないので、会計にあらわれる企業の業績は、不動産や株の相場の動きにしたがって上がったり下がったりする。こうなると資金を安定して調達することが難しくなり、長期的な企業戦略を立てられなくなるので、短期的に儲けをあげられるような企業経営をせざるをえなくなります。


短期的に企業の業績を上げるいちばん簡単な方法がレイオフです。クビ切りをして支出を縮小するわけですね。実際、時価会計の導入とともにリストラの嵐が吹き荒れました。それがこの10年間に日本社会が味わった「痛み」の原因となった。


しかし、そうした「何でもあり」のやり方にアメリカ自身がもたなくなってしまったのが、いまの金融危機ですよね。現在のように不動産価格や株価がどんどん下落しているときに時価会計でやっていたら、企業はたまりませんから。


本山 その通りです。そしてついにアメリカがおかしくなって、この(2008年)10月にEESA(Emergent Economic Stabilization Act)というものができました。直訳すると「緊急経済安定化法案」です。つまりアメリカは自らが恐慌寸前の状態にあることを認識しているわけですね。


しかしなぜかこれが日本では「金融安定化法」と訳されています。これは大きな誤解をあたえるものです。なぜならこの法の対象は金融にかぎられないからです。企業からCP(コマーシャル・ペーパー)を買うとか、要するにあらゆる機関の不良債権を買い取ろうということが、ここでは想定されています。だからファイナンスという言葉もありませんし、なぜ日本でそう訳されているのか理解できません。


いずれにしても、これによってアメリカはさんざん日本に押しつけてきた時価会計を停止したわけで、すごい法律です。ですから日本の金融機関がモルガンスタンレーを買収してアメリカで活躍しようとしても、何らかのタガがはめられるはずです。

これぐらい長い引用をしたらもう恐れるものは何もない。もう一つ気になる話も付け加えておく。格付会社とは何か? について。



金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)



萱野 本山さんは2008年4月にだされた『金融権力  グローバル経済とリスク・ビジネス』(岩波新書)のなかで、その金融市場の構造を「金融権力」として分析されていますね。まずは、「金融権力」とは何か、ということについて簡単にご説明していただけますか。


本山 「金融権力」というものを具体的なイメージで説明するなら、勤務評定を特定の会社にされてしまうということです。「特定の会社」というのは格付け会社のことですね。名前を挙げるとムーディーズとS&P(スタンダード・アンド・プアーズ)ですが、この2社が全世界の格付けの75%を独占しています。


公的に信頼された格付け機関というのをアメリカは7社認定していますが、アメリカで企業が証券を上場しようとするなら、さきの2社を含むこの7社以外の認定機関は使ってはいけないことになっています。アメリカの格付け会社を使わずにアメリカで商売してはいけません、ということです。そしてその格付け会社からの評定がさがった瞬間に、その企業は倒産してしまいます。


日本ではこれまで、社債やいろいろな債権を発行するとき、大蔵省(現財務省)の認可が必要でした。それが自由化、規制緩和によって廃止され、国から介入なしに誰が発行してもいいということになりました。そのときしゃしゃりでてきたのがムーディーズやS&Pです。いわばここにも、アメリカ企業の市場参入にための規制緩和がなされるという構造があったということです。そして1997年以降、ムーディーズとS&Pは日本の金融機関の格付けを執拗までに下げ、そのあおりで山一證券がつぶされてしまいました。


こうした格付け会社が日本で活動するようになるということは、日本の企業はすべてのデータを格付け会社に明らかにしなくてはならなくなるということです。しかも格付けの手数料まで払わなくてはなりません。そういったことが当たり前のようになされているんです。それでも日本の企業は「ムーディーズからトリプルAをもらいました、我が社は素晴らしい」と言ってしまう。日本にも格付け会社があるにもかかわらず、です。


要するに、格付けされるということは、すべてのデータを格付け会社に渡すということです。しかもアメリカは、アメリカで商売するときにはアメリカの会計事務所を通せと言う。アメリカには四大会計事務所がありますが、ここに企業のデータをすべてださなくてはいけないのです。


さらに、アメリカの企業が日本に進出するさい、たいていアメリカ人は英語しかしゃべれませんから、日本でつかえる会計士や弁護士が必要となってくる、それで、会計士や弁護士を増やせ、法科大学院をつくれ、という要求がでてくるわけです。人のことはほっとけ、と言いたくなりますが、結局アメリカ側の商売の都合で、日本の教育システムから何からあらゆるものが変化させられている。このことをもっとはっきり認識するべきではないでしょうか。


萱野 外国の企業がアメリカで上場するときには、アメリカの四大会計事務所に監査を依頼せざるをえません。それによって企業の重要情報はすべて筒抜けになってしまう。しかも、それら会計事務所の幹部や調査員たちはファンドをつくって、そこで入手した企業情報をもとに投資をしているんですよね。これってどうなの、という感じですが(笑)、これが現実です。


本山 世界一金持ちのバフェットは、ムーディーズの16%の株を保有しています。ここでもバフェットを神様のように扱うまえに、ムーディーズに眼を向けなくてはなりません。ムーディーズがほめたら証券の価値は上がり、けなしたら終わりなんですから。


萱野 究極のインサイダーという癒着ですよね。自分の投資先にムーディーズがいつもいい格付けを与えてくれれば、儲からないわけがありませんからね。


ただ、こういうしくみがなかったら、アメリカのこの10年ほどの金融ヘゲモニーはありえなかっただろうとも思います。ですから、金融のなかの数字だけを見ていては実態はわかりません。誰がどういうかたちでシステムをデザインして、誰がどういう決定をして、どういうかたちで富や情報が動いているのかを見ないと、おそらくいまの状況をつくっている構造はみえてこない。


本山 アメリカの悪口をさんざん言ってきましたが、その点、アメリカを非難してすむ問題ではないんですね。本当に一握りの華麗な人脈があって、その一握りの人たちが世界の富の流れを牛耳っている。もちろん、だからといってユダヤ人が世界を支配しているなどと言いたいわけではありませんが。


そういう国際的な人脈網というのを、もう少し意識的に見ていかなければならないのではないか。たとえばそういった人脈網のなかに世界的有名クラブがありますが、そのクラブには日本人は一人も入っていません。


萱野 日本は、そのクラブに日本人も入れてくれと要求するのか、あるいは別のクラブをたとえばアジアで構築するのか・・・。


本山 クラブは閉鎖的ですが、日本はオープンに、アジアの人々と助け合っていきます、というふうにするべきですよ。アジアの時代がすぐそこまで来ているというのに!

ここまでくるともうトヨタだけの問題ではなくなってくる。昨今のリコール問題はどうも臭い・・・。だからリコール問題以前のトヨタ問題の方がやはり重要であって、こういった問題を例えば、狭義の意味での「最適化」ではなくもっと広い適用を視野に入れた上で《制御工学》の知見のもとに研究者が知恵を出し合えばどうだろうか。それが我々が木村英紀氏を始めとする《制御工学》研究者に期待することである。



ものつくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる (日経プレミアシリーズ)

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制御工学の考え方 (ブルーバックス)

制御工学の考え方 (ブルーバックス)



その前に、制御工学を引き合いに出すまでもなく、ある程度の解法は提示できるのでざっと記しておく。


A.過去最高益が減益に転じた途端の人員カット


→(社会)時価会計でなく、ものつくりの現場の実態に適合する会計基準を設計する。


→(企業)儲けをシステム的に従業員福祉にまわす制度を設計する。



B.資本集約型(大手)と労働集約型(中小零細)の二重構造への依存


→(企業)「トヨタ生産方式」をトヨタ本体のみならず下請け企業への適用も視野に入れ、その結果からフィードバックして《最適化》の解答を導き出す。例えば、単にトヨタ本体の在庫を一掃するのではなく、下請けも含めた生産ラインの流れを計算して、トヨタ本体もどれほどのストック(在庫)を常備するのが適切かを割り出すなど。



C.広い意味での人々の生活を支える機能の放棄


→(社会)企業の存在価値が、企業が直接生産販売している商品のニーズだけでは評価できなくなってきている。その企業が人々の生活を支える力をどれほど有しているか、また適正に支えているかを査定する。例えば納税額、正社員の比率など、評価制度を設計し、格付等に反映させる。


以上、本屋で働いている素人でもこれぐらいのことは考えられる。もちろん事実誤認も多々あろうし、検討違いのことも言ってるだろうし、論証も解法の提示もアバウトだ。それは一個人の能力の限界なので仕方がない。しかし、だからこそ、この先は《経営者》《経済学者》《制御工学研究者》《金融工学研究者》《官僚》《政治家》といったプロの方々の手によって解決されたい。





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