佐々木敦×円城塔トークセッション



 佐々木敦 小説家連続トークセッション(第9回)




 タイトル: ことはりの積もるころ


■ 出演


 佐々木敦(批評家)


 円城塔(小説家)


■ 日時: 2010年2月3日(水)18:40〜20:40


■ 会場 : ジュンク堂書店新宿店





《感想:理系再考》




 あの円城塔がついにベールを脱いだ!!!



A:「えーと、まだ信じてない人がいるようですが、円城さんはタワー型コンピュータではありません。人間です。ほら動いてるでしょ。」



 


 


 



B:「ロボットかもしれないじゃん。」


A:「だまれ!! 大サービスして3枚も写真載せたんだからつっこむなよ!! たぶん人間に決まってるだろ!!」




さてさて。
まず小説家・円城塔さんに寄せる期待について。


数年前小川洋子さんが『博士の愛した数式』を書いて大ヒットしました。


博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)


数学が専門でない小説家がよくあれだけ書いたと高く評価されました。ただこの時さらなる興味が多くの読者に芽生えたのも事実です。「本当の数学者(物理学者)が小説を書いたらどうなるだろうか?どんな小説を書くのだろうか?」と。


それで僕も思いました。「だったらオレがやったるか!一応理系だし!!」



   【 問 題 】


三角形ABCにおいて、BC=32、CA=36、AB=25とする。この三角形の二辺の上に両端をもつ線分PQによって、この三角形の面積を二等分する。そのようなPQの長さが最短となる場合の、PとQの位置を求めよ。

はい、ブブー! 僕にはこの程度の問題も解けません。一応理系ですけど私立理系コースですからね。なんちゃってもいいところです。英語と国語ができないから理系を選択したら数学と物理ができなくて苦しんだというパターンですよ(文系でも理系でもないじゃん!)。僕の数学体験を語れば、いろいろ手は出しましたけどものにならず、結局問題集1冊と公式集1冊を丸まる暗記して入試やって終わったらサッパリ忘れて、大学入ってからもテストは過去問を暗記してかわしました。よって「数学者としての小説執筆」は無理でした。[Q.E.D]



そこへ流星の如く現れたのが円城塔さんだったんですね。円城さんはもともと物理の研究者で色んな研究所を渡り歩いていた方です。ちょうど福岡伸一先生が『生物と無生物のあいだ』に書かれているのような生活をしていたと思ってもらえばいいでしょう。



生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)



そんな人がなんと小説を書いた! 福岡先生もびっくりですよ!!!



オブ・ザ・ベースボール

オブ・ザ・ベースボール


Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)


Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)

Boy’s Surface (ハヤカワSFシリーズ―Jコレクション)



案の定、どれもおかしな小説です。おかしな文章です。「このおかしさは何故に?」、 これが今日のトークの見どころでした。そして例の如く、佐々木さんが根掘り葉掘り聞いてくれました。たくさんの収穫がありましたよ。






 円城塔=プロットを書く派




小説家の執筆スタイルでよく話題に上るのが「プロットを書くか、書かないか」問題。それで円城さんは「プロットを書く派」なのですが、このプロットがおかしい。



 



「プロットはこれだけです。『烏有此譚』の前半がこれ(a)で、後半が(b)です。」(※1)



烏有此譚

烏有此譚



まず図が浮かぶと言うんですね。面白い。ただ今日のトークを聴いてもまだ理解しきれない点がありました。これって必ずしも図とは限らないと思うんですよ。式かもしれない。それで「円城さんの言うプロットにどれぐらいの幅があるのか?」、また「小説として動き出すプロットとそうでないプロットがあるのか?」このあたりはまだまだ掴み切れませんでした。もっともっと円城塔作品を読み込まないとダメですね。例えば新刊『後藤さんのこと』のプロットはいかなるものかを考えてみたり。



後藤さんのこと (想像力の文学)

後藤さんのこと (想像力の文学)






 円城塔がめざしている小説=堀江敏幸『雪沼とその周辺』




「円城さんが今後どのような小説を書きたいのか?」という話題も上ったのですが、円城さんの口から出たのはなんと堀江敏幸さんでした。理系出身の小説家として期待されるような変な小説ではなく、まともな小説を書きたいと。どこにでもあるような日常を書きたいと。『雪沼とその周辺』に所収されている「スタンス・ドット」のような小説を書きたいと。



雪沼とその周辺

雪沼とその周辺



大谷 『スタンス・ドット』っていう、冒頭に入っているボーリング場の話なんですが、古い、もう今日で閉館してしまうボーリング場の主人が、昔聴いた「ハイオクさん」という常連のプレイを思い出して、彼のボールがピンを倒す時の音が素晴らしく良かった、と思う場面があります。ボーリング場の主人はしばらく前から難聴気味になっていて、普段の物音も最近は聴き取りにくい。目の前でボーリングのプレイが行われていても、もうボールがピンに当たる音も聴こえないくらいなんですが、そういった無音の中で、過去聴いたストライクの瞬間の音を思い出している。音から切断されてしまった人間が、サウンドを思い出す事で過去から現在まで辿り直し、「音」を巡る想像によって生活の中に突然、緊張感が生まれてくる、という事件がこの小説では起こっています。生活におけるある印象的なしぐさっていうのは、その人が死んでしまったり、そのしぐさが仕事自体に必要がなくなってしまうと、すぐに失われてしまうものですよね。


堀江 ええ。


大谷 そういった個人に結びついたある繊細なしぐさと、ある種、不意打ちのように現れる印象的な音の一撃、というものの緊張関係の中に、記憶の層というか、持続と回想っていうようなかたちで寒村の時間が描かれていて、非常に感銘を受け、楽しく読ませて頂いた次第です。

堀江敏幸さんの『雪沼とその周辺』については以前、大谷能生さんのイベント開催時に渾身のレポートを書いたのでよかったら読んでください。


 『大谷能生のフランス革命』その読と解(その2)


このレポートを読み直してピンと来ました。円城塔さんと堀江敏幸さんは全然作風が違うようで実は非常に近いかもしれません。僕たちは理系の頭を誤解しているのではないかと思った次第です。


私事で恐縮ですが、建築に話を引きつけて続けますね。いわゆる建築家が理系の頭かどうかは怪しい。建築の場合、理系の頭と言えば構造設計家はそうだと言えるでしょう。その構造設計家で、もう本当にすごい人でしたが木村俊彦先生という方がおられまして、その方がこんなことをおっしゃってます。


もし私たちが1つの建物を設計しようとする場合には、まずそのアウトラインを頭の中に浮かべ、それを具体的な形にして紙の上に描くであろう。そのとたんにその構造物の全体および部分にどのような力の釣合が成立するかが一意的に決定されてしまうのである。したがって、この力の釣合を事前に予測し、どの部分にはどんな力が起こるかを見通して、それに相応する強さを十分にもった構造物を描いていなければ、その着想は単なる空想に終わってしまうのである。だからこそ、設計者は力学的な素質または構造設計者の協力なくしては建物の設計ができないのである。どのような仮定を設け、どのような法則を使用し、どの程度の精度でその力の釣合を解析するかということは重要な方便ではあるが、それは建物の構想がまとまったとき、一意的に行えるものであり、計算の熟・未熟はあっても、また解析能力の高低はあっても、空間の形状や構造のシステムを根本的にくつがえす問題ではない。これは熟練し、解析能力の高い構造技術者に委ねられるべき課題である。


建築家や構造設計家の役割は、これらの力学的な釣合を予見しながら、建物の平面や空間や、視覚上の表現や経済の問題を有機的に総合して彼の構想を実現可能なものに整理し、秩序づけ、育て上げることなのである。したがって、解析方法に関する定理や法則や公式などの数学的な知識をもたないまでも、各部の力の釣合に対する正しい勘(経験的なものであれ、知的なものであれ)を養成することが不可欠であろう。そしてこの単純な「釣合状態の直感的な把握」こそ、空間の構想力を完全に支配する問題であり、時によっては数式的な法則のアカデミックな勉強では養成されないばかりでなく、スポイルされることすらあるのである。構造設計家が耐震壁の分担率などという術語で、建物の外力と反力との釣合関係に重大な錯覚を起こし、あるいは布基礎の反力のとり方とその設計応力の間に全く喰い違った2つの釣合状態を共存させるような過ちはときどき散見されるところであるが、基礎的な釣合状態の的確な把握がなく、計算のテクニックの運用に頭がいっぱいになっているからである。建物の設計に際しては計算尺の目盛りの若干の狂いよりも、また適用する仮定の僅かの差異よりも、もっと大きな見地からの釣合状態の把握こそ重視されなければならないし、間違ってはならないのである。(※2)

僕は木村先生とは仕事をしたことはないのですが、その弟子のこれまた素晴らしく優秀な方ですが、池田昌弘さんとは少しだけ一緒に仕事をしたことがあります。池田さんの考え方も木村先生と同様で、まず構造模型を作るんですね。それで力の流れをざっと把握する訳です。「ここに柱がいるかいらないかは分かるよね。これは意匠さんでも分かんないとダメだよ」って言われました(分かりませんでしたが、、、汗)。


それで僕たちは理系の頭をやはり誤解しているんですね。理系の頭=コンピュータだと。建築の話で言えば複雑な解析を行う計算機みたいに思ってしまう。確かにこれも理系の頭でありバカにできません。木村先生は「解析能力の高い構造技術者」と表現してその重要性を認めてますし、昨今の伊東豊雄さんがつくっているような曲面構造の建築なんかはNASAかどっかが開発した恐ろしい解析ソフトが出回るようになって初めて実現しました。だからこのようなソフトを開発する人の頭も理系の頭として無視できません。でもでも、そういったプログラマーも含めて、理系の頭において「直感的な把握」というのはやはり大事なのです。


そこで改めて考えてみると、堀江敏幸さんがやっているのは「直感的な把握」への文学からのアプローチということになりましょうし、円城塔さんがやっているのも同じく「直感的な把握」への数学経由文学からのアプローチということになりましょう。


かなり大雑把にまとめてしまいましたが、円城塔さんが堀江敏幸さんを目指すというのは何も180。方向転換という訳ではないんですね。あくまでも今までの執筆活動の延長上にあると考えていいんじゃないでしょうか。


円城さんは今は充電中だそうです。そしてそろそろ円城塔2.0》が始動するとのことです。期待しましょう!!!


そして僕も青チャートを解いて充電しておきます!!!





※1 杉森大輔円城塔インタビュー」(『アラザルvol.2』所収)より


※2 木村俊彦『構造設計とは』鹿島出版会 pp.230-231.







 日経新聞2010年2月7日(日)朝刊》








 円城塔選書リスト(福永信フェアゲスト選書)》


 円城塔選書リスト









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