ダムタイプ『true/本当のこと』
《総合芸術》をめざして
a.
日本では、明治6年(1873年)1月1日から、それまで使っていた太陰暦を太陽暦(グレゴリオ暦)に改めた。旧暦は明治5年12月2日まで使用され、その翌日は日本の外部の時間にあわせた為に、明治6年1月1日になった。つまり、明治5年12月2日は、西洋の時間では1872年12月31日だったのだ。日本の歴史は、明治5年12月3日から31日までを持たない。
(藤本隆行 / ダムタイプ)※1
1.《総合芸術》のゆくえ
ダムタイプ『true / 本当のこと』を横浜赤レンガ倉庫で観た。
作品については、白井剛と川口隆夫、両ダンサーのダンスパフォーマンス(身体表現)が突出しているという感はあったが、ダムタイプが創設以来ずっと追究している「人(身体)・光・音・オブジェ(装置)・映像・テクスト、etc.」を駆使した《総合芸術》の醍醐味を存分に味わえる内容であった。「芸術ってこんなことができるのか。芸術っていいな」と、うれしくておもわずニヤッとしてしまった。また、そのような作品の制作に大学の同期生が関わっていたということも更なる喜びであった。
思えば、私自身もこのような《総合芸術》を志向していた時期があった。Googleで自分の名前を打ち込むと過去の作品が数点引っ掛かる。そのなかの1つに次の作品がある。
これは、学部を卒業して大学院に入るまでの春休みに制作した作品で「オブジェ・映像(写真)・模型・音声」といったミクストメディアの体裁をとっている。学部4年の前期からこの時期にかけて、ミクストメディアの比較的大きな作品を4つほど制作したが、これがその最後の作品であり、作品の前で座りながら話している自分の姿を見ると疲れている様子が読み取れる。それに反して、私の奥でニヤッとしている人物が、今回『true / 本当のこと』の機構設計を担当した斎藤精一(http://www.rhizomatiks.com/)であり、ちょうどこの頃、創作活動を共にしていた友人である。
この後の斎藤と私の進路は対照的で、彼はアメリカでもメディアデザインに特化したコロンビア大学(http://www.arch.columbia.edu/)へ留学し、卒業後、CG、コンピューターのプログラム、Webデザイン、オブジェ制作、建築デザインと多岐にわたるデザイン活動を展開し今に至っている。一方、私はこの後、表現媒体を「建築と文章」の2本にしぼり、大学院を卒業して設計事務所に4年間勤務した後、さらに表現媒体を「文章」の1本にしぼり今に至っている。(語弊があるかもしれないので断っておくが、斎藤はスタッフ7名ととも活動しているプロのデザイナーであり、私は未だ原稿収入ゼロのアマチュアの文筆家である。)
それぞれが選択した道はどちらが正しいというのではなく、お互いの能力の性質から見れば、両者とも正解だと思う。斎藤は爆発的なパワーでガンガン行くタイプであり、私はコツコツと打ち込むひきこもりタイプである。斎藤には会うたびに「もっと色々やれよ」と怒られ、私は「そのうちにね」と言葉を濁すという感じだったが、彼もその性質の違いはよく分かっていたと思う。
だから私は、斎藤に彼の能力を最大限に発揮できる幅広いデザイン活動を展開してもらいたいとずっと思っていたし、そして今回、学生時代は雲の上の存在であったダムタイプとこうやってコラボレーションするに至った彼を見て心底うれしく思った。
一方、私が先日出版社の新人賞に応募した原稿を斎藤に渡したら、ちゃんと読んでくれて、それなりに書けていたので、斎藤もこちらの方向性を認めて、それはそれで喜んでくれた。
b.
パンナム / PAN AM ( Pan American World Airways )は世界最大の航空会社で、1947年には既に史上初の自社運航世界一周路線( NY > London > Istanbul > Calcutta > Bangkok > Manila > 上海 > 東京 > Wake Island > Honolulu > San Francisco > NY )を開設していた。
しかし、その知名度が仇となり、60年代以降は多くのハイジャックやテロの標的にされ、最後には湾岸戦争による国際線乗客激減と燃料高騰等の影響で、ついに1991年12月4日に破産し運行を停止した。
(藤本隆行 / ダムタイプ)※2
2.《総合芸術》の困難
「青春っていいな」。我ながら、いい話だと思う。ただ、話を少し単純にし過ぎたかもしれない。《総合芸術》なるものは、斎藤のようなパワフルな人のなせる技と一方的に押し付けてしまったが、現実的にはその実現は、決して容易ではなく困難を極める。
今一度、学生の頃を振り返ってみる。ミクストメディアの作品制作を4つ目でやめてしまったのは、複数の媒体を技術的にカバーできなくなったこともあるが、最大の理由は制作資金が尽きたからである。制作費が4作品で約100万円かかった(プロジェクター等の機材、ギャラリーの賃料も含む)。しかも転用がきかないものが多く、基本的にその場限り。保存する場所もなく実家に送ったりしたが、両親に迷惑がられ、最終的に写真だけとって解体して捨てた。
これは学生だけの問題ではなくプロも同様である。展示制度として確立している絵画であっても画家は作品の保存に頭を悩ましている。それがジャンルとして確立していない《総合芸術》ともなると尚更である。見た目の華やかさ、強烈なインパクトとは裏腹に《総合芸術》の成立は非常に危うい。終演後「今回の作品制作にいくらかかった?」と失礼な質問をしている人がいたように思うが、その質問をしたのが制作側の人だとすれば分からなくもない。たった15秒のCM制作にいくらかかっているかを知ったらびっくりすると思うが、映像、音響、オブジェ(装置)を商業ベースではなく芸術作品として制作することの困難は相当である。
聞くところによれば、ダムタイプという芸術集団はかなり流動的なグループで、決まったメンバーで毎回作品を制作している訳ではないらしい。各々が独自に表現活動を展開しており、今回のようなチャンスがあれば集結して作品を創り上げる。作品は定期的に発表される訳ではなく、偶発的に、奇跡的に生まれるのだ。だからダムタイプは知名度こそ高いが、その実体はあってないようなもので、メンバーのうち創作活動だけで食べていけているのは、ごく一部の人だけということだ。芸術の世界では、よく聞く話だが、このような特殊な表現形態を継続することの困難を如実に物語っている。
c.
一九八一年創刊の情報誌「ダカーポ」(マガジンハウス)が、今月刊行の六百二十号を最後に休刊した。同誌は新聞やテレビなどの報道を概観できる内容で、「社会人の常識」や「今年最高の本」、話題の人や事件を振り返る年末回顧などの特集に特色があった。最後の編集長、高木幹太氏は「この雑誌自身がインターネットを先取りしたようなものだった」と同誌の果たした役割を語る。情報源としてはネットと直接競合してしまい、力尽きた格好だ。(中略)
現代用語の情報誌休刊も今年の話題。集英社の「イミダス」は厚手の事典として親しまれてきたが、今年はサブプライムローンや地球温暖化など時事問題の分析記事をまとめた百九十ページの本「イミダス スペシャル」に生まれ変わった。競合誌の「知恵蔵」(朝日新聞社)も今年度版をもって休刊した。
時々刻々と変化する時代の諸相を「新語」を切り口に整理し、さらにそれを毎年更新していくーー。そうしたコンセプトは斬新だったが、ネット上の百科事典「ウィキペディア」の充実などで役割を終えた。
(日経新聞2007年12月16日朝刊)※3
3.《総合芸術》の可能性
ダムタイプ作品を観た第一印象は「カッコいい」である。そのヴィジュアライズされた作品のイメージから 「Tomato / Under World 」( http://www.tomato.co.uk/ )のようなデザイン集団の活動を連想してしまう。また複数のメディアを自在に操るという点で、サンプリング、カットアップ、リミックスといった手法を前面に押し出して作品を展開する、いわゆる「シミュレーショニズム」(※4)の作家と並べてしまいがちだ。しかし、ダムタイプ作品の本質からすれば、そのいずれもが相応しくなく、やはりミクスト・メディアの雄、ロバート・ラウシェンバーグの活動の延長上に、彼らの活動をみるべきであろう。
fig.2 ラウシェンバーグ
そして、ラウシェンバーグ個人の作品に留まらず、彼が舞踏家のマース・カニンガム、音楽家のジョン・ケージと手を組んでめざそうとした《総合芸術》の延長上に、ダムタイプがめざす《総合芸術》の姿を見ていくべきであろう。
なお、ラウシェンバーグの作品については「即興」、「ハプニング」といった言葉でよく語られるが、それは彼の問題意識の1つの現れにすぎない。彼が作品を制作するなかで試みていたのは、絵画が克服せねばならない問題、つまり「事物」「身体(感覚)」「脳(知覚)」の問題を浮き彫りにして、「true / 本当のこと」を探究し、解き明かすことであった。
d.
ヒトが世界をとらえる為のもっとも基本的な行為である、「視る」ことや「聞く」ことでさえ、自分の外側の物事を、ただそのまま頭の中に、鏡のように映しているわけではない。あなたは、この一瞬に立ち現れる事象を、あなた自身の頭の中で選り分けて加工・再構成し、常に新しいあなたの世界を見聞きしているのだ。私たちが、既にそこにあると思い込んでいる、動かせない「現実」の多くは、実は自分自身の中で日々生み出され更新されている。そう、なんの制限もなくただ受け入れている、と思っているそれらの多くが、あなたが今まで生きて作り出してきた様々なフィルターにより、加工精製されたものなのだ。
(「true / 本当のこと」パンフレットより)※5
4.「true / 本当のこと」スコア
[初期設定]
field 0 : 観客席(観客)
field 1 : 舞台(ダンサー1 / カップ)
field 2 : テーブル(地球儀、ポートレート写真、お皿、etc.)
field 3 : 監視台
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・ダンサー1 登場
体が傾く。バランスを崩す。重力と格闘。動きがうまれる。
・ダンサー1よろめきながらテーブルへ。オブジェを手に取る。
※効果音(ノイズ、心臓の鼓動?、飛行機のジェット音、ピー! etc.)
※照明(赤! etc.)
・テーブルが抜け落ちる!(事物像がゆがむ)
・お皿を叩くとお皿が割れる音がする(ズレ、時間の逆転)
・水(水の存在を強調する音がする)
※ 1. 人 2. オブジェ 3. 音 4. 光 がクロスオーバーしてくる
※ 人というよりも、むしろ「身体」!!
・オブジェの求心力(身体、音、光を引きつける)
・ダンサー2監視台から眺めている(赤のレインコート着用)
・ダンサー1が動く。身体が動く。音がなる。音が動きを誘動する。
・ダンサー2が舞台へ降りてくる(影 / 反-人間?)
・ドン!(いろんなものが一斉に落ちる)
・テキスト、言葉が介入
・ナレーション(人間の眼は2つの焦点が〜)
・眼、像を結ぶ、結ばない
・色、形、大きさ(白って色?)
・概念(日付変更線は人工物)
※ 反復、リプレイ
・脳ー感覚ー意識
・重心ー動き
・うれしい、楽しい(感情)ー動き
※メカニズム
・逆回し 時計?
※ 時計なんてそもそもない。人間の創造物
・身体(動き、歩行、ステップ、回転)、テクスト(タイプ)、光、音
※全てが連動する
・ダンサー1とダンサー2が交錯する。入れ替わる
・ダンサー1にダンサー2の顔の映像が投影され話出す
・目が見えないダンサー1
・スクリーン裏のダンサー2のモーションがダンサー1に投影される
・テクスト、数字、数式、sinウェーブ、グラフ
・身体(走る、投げる、様々な動き)
※ 表情。そう表情は大切!
・量、カオス
・関係(引きつけ合う、対立する、ズレる、相補する)
・動き(隊列)
・真っ暗になる(終)
e.
どんなに確固として揺るぎの無いように思えるシステムにも、何がしかの例外は存在し、今そこにあるものが、もはや有り得ないというだけでなく、これまでに一度も存在しなかったという可能性もある。
(藤本隆行 / ダムタイプ)※6
「ダムタイプ ー ラウシェンバーグ」のホットラインをより深く理解するために、さらにそれ以前、ドガにまで遡って考えてみる。ドガは印象派の画家のなかでは無視されがちであり、マネ、セザンヌ、ゴッホ、あるいはスーラーよりも語られる機会が少ない。その理由はドガがアングルを深く尊敬しており、その影響が強いため、古典主義を引きずっているとされているからであろう。しかし、ドガはミクストメディア、総合芸術が探究すべき問題を先鋭的、かつ明確に示している。その点について説明しよう。なお、以下[5-1]のドガに関する説明は、松井勝正氏が行ったレクチャーのレジュメ(※7)に依拠する。
5-1. ドガ
5-1-1. 歴史画とドガ
fig.4 プッサン《ソロモンの裁判》
【 歴史画:「いつどこでだれが」】
歴史画の伝統:異なる空間、異なる時間の統合。
奥行きは空間的総合であり、出来事は時間的総合である。
【ドガ:非歴史、無事件「いつかどこかでだれかが」】
ドガの画面では出来事が生じない。時間、場所、アイデンティティの不確定性。
・場所の不確定性:地面が無い。背景のオールオーヴァー性。フレームの複数性。
・アイデンティティの不確定性:人物の没入性。重ならない系列。
・時間の不確定性:人物の類似性。歩行運動。
5-1-2. ドガとマイブリッジ
【ドガ:アブソープション、バリエーション】
fig.5 ドガ《サンダルをはく踊り子たち》1893-98
【マイブリッジの連続写真】
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/05/Muybridge_race_horse_animated_184px.gif
ドガは同じモチーフを繰り返す。バリエーションが一つの画面に並置される。
マイブリッジ1877年(ドガ、1881年に「ル・グローブ」誌で知る。)
連続写真や映画の先駆としてのドガ。
しかし、連続写真や映画によって実現した可能性にドガを回収せず、あくまで絵画の問題としてドガの可能性を捉えなければならない。
fig.7 ドガ《スタート前の騎手達》1862
異常な重なりが個体の特定を困難にする。
ドガのデッサンにおいて、形体は空間的、時間的広がりを含んだ多様体として現れる。
5-2. 似て非なるもの(ドガ / マイブリッジ)
ここで決定的に重要なのは、ドガとマイブリッジとの比較である。「マイブリッジの連続写真」は、写真では表現できなかった「動き」を初めて表現したとして、また映画の始まりとしてしばしば語られる。だが、このマイブリッジとドガとの比較において興味深いのは、ドガがマイブリッジの問題意識を先取りしていたことではなく、むしろその違いである。言い換えるならば、マイブリッジの連続写真(アニメーション)は動いているように見えるけれども、果たしてそれは本当なのかという問題である。つまり、人が「運動」を《知覚》するとは、連続写真をコマ送りすることなのだろうかという問題が、マイブリッジとドガとを比較することで顕在化するのである。
角塔を遠方から眺めたとき丸い塔に見えた。だからこの丸い塔の視覚風景は見誤りであるといわれる。だがこのとき、「誤り」といわれるのは、「近くで塔を見たときの視覚風景」との対比によってである。では近くで見る角塔の風景は誤りでなく正しいのだろうか。そんなことはあるまい。更に近くによって見るとそれは塔ではなく細長い建物の側面だった。あるいは、よく見れば結局やはり丸い塔だった、ということもあろうからである。更に近づいて見れば、一面の白壁と見えたのは実は無数の小さな黒点の散らばった漆喰であった、更に眼を近づけてみるとその一つ一つの黒点は暗い緑の複雑な模様を持った粒石であった、更に近づくと・・・。そして極端に眼を近づければこんどは一面にボーッとしたそれこそ「色の拡がり」の風景となろう。
このズームレンズ的な視覚風景のシリーズの中で、これこそ間違いのない正しい視覚風景だというものはない。一つの正しい視覚風景なるものがあり、他の視覚風景はそれと照合して適合しているのが正しく、食い違うのが誤りである、というのではない。そうではなく、このシリーズの全体が寄り集まっていわば「正しいシリーズ」というものを合成するのである。そして、その正しいシリーズ(正しい射映シリーズ)にうまくはまらない視覚風景が誤りとされるのである。遠方から丸く見える塔の風景は、「単にそれ自身において見られ、他のものと関係させられないならば、本来偽ではありえない」(デカルト『省察』3)のである。(大森荘蔵『新視覚新論』より)(※8)
f.
6.本当のこと
また同じ所にきたか。5月に書いた文章と同じオチというのはいただけない。
http://d.hatena.ne.jp/m-sakane/20070519
さて、この先どう展開しようか? う〜ん、また勉強することが増えたな。
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※1 藤本隆行「ヒトの創りしモノ:」(「true / 本当のこと」横浜赤レンガ倉庫公演パンフレット所収)より引用。
※2 同上
※3 日経新聞2007年12月16日朝刊(「ダカーポ」「イミダス」休刊 ネット時代の情報誌正念場)より抜粋して引用。
※4 シミュレーショニズムについては、下記の文献を参照のこと。
椹木野衣『増補 シミュエレーショニズム』ちくま学芸文庫
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0101345610
※5 「世界と向きあうために」(「true / 本当のこと」パンフレット所収)より引用。
※6 藤本隆行「ヒトの創りしモノ:」(「true / 本当のこと」横浜赤レンガ倉庫公演パンフレット所収)より引用。
※7 松井勝正『ドガの〈エチュード〉---研究・練習・習作』(「芸術学」研究サークル[第6期:2006年度]12月)。松井氏が配布したレジュメを一部改め、抜粋して引用。
※8 大森荘蔵『新視覚新論』東京大学出版会 pp.47-48.
※9 藤本隆行「ヒトの創りしモノ:」(「true / 本当のこと」横浜赤レンガ倉庫公演パンフレット所収)より引用。