中森明夫×高橋源一郎トークセッション




  


 中森明夫アナーキー・イン・ザ・JP』刊行記念トーク



   アナーキー総決起集会〈第2弾〉》

■出演:  中森明夫×高橋源一郎



■ タイトル:アナーキー・イン・ザ・JB(純文学)』


■ 日時:2010年10月31日(日)18:40〜20:40


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)




《感想文:国民作家と狂気》




  



中森明夫さんと高橋源一郎さんのガチンコトーク。すばらしかった。「さすがプロ!」と思わず唸ってしまうほどの出来だった。


私は語学がダメなので英語に翻訳することはできないけれど、野球に翻訳することはできる。今日のトークは、野球で言えば2対1か1対2といったロースコアの一番引き締まった試合。10対9といった乱打戦も面白いけど、そんな試合とはクオリティが全然違う。


僕が立っているポジションから観ると、二人がちょうどベンチから観ているピッチャーのようだった。両先発投手とも低めによく制球していて終始浮いた球、甘い球はなかった。完璧なピッチングと言ってよかろう。


中森明夫さんは、上原浩治投手のようにどんどんぐいぐい投げ込んでいくタイプ。高橋源一郎さんは、どうしても達川光男捕手のイメージが抜けないのだけど、トークは意外にもストレートを基調にしたオーソドックスな攻め方で、イメージとしてはファイターズの斎藤佑樹投手か、カープ前田健太投手といったところだろうか。


さて。トークで一番興味深かったのは、宮沢賢治大江健三郎を例に「彼らはあきらかにおかしい」と彼らに潜む《狂気》を指摘した一連のやり取りの後、会場からの質問で、「彼らとは違ういわゆる国民作家というのは誰だ?」と問われた件。高橋源一郎さんは国民作家として宮崎駿を挙げた。その宮崎駿について初めは、多くの人が思っていることや願っていることに応える能力、そういった気持ちを代表する力といった国民作家の条件を兼ね備えていると指摘していた。しかし「ポニョって変だよね」「宮崎さんって作品の制作に取りかかる時点では最後を決めてないんだって。何十億ってお金が動いているのにだよ。すごいプレッシャーだよ。いかれてるよ」と、いつの間にか宮崎駿の《狂気》について二人は熱く語り合っていた。


そう言えば、私も宮崎駿は怖い人だとずっと思っていた。それを感じたのは『もののけ姫』で、「この作品を何万人という人に見せて大丈夫か!?」って思ったし、呪われたアシタカが弓で武士の腕を飛ばすシーンがあるのだけど、その描写がちょっとやり過ぎで呪いを表現しているというよりも、宮崎駿自身の意志を感じるというか、ずばりこれは宮崎駿の《狂気》だと思った。


この嫌な感じは、同様に2000年前後の反米デモで踊り狂っている人たちを見ても受けた。「この人たち、実は戦争を喜んでいるんじゃないか? 自らに潜んでいる戦争を望む心が共鳴しているんじゃないか」と思ったことがある。


今はそういう受けとめ方はしない。時代が変わったというか、私自身が歳をとったからだと思う。時代で言えば1995年〜2003年頃のことだけど、私がおかしかったのか、世界がおかしかったのか、よく分からない。


そこで、もう一度、中森明夫さんと高橋源一郎さんのトークに話を戻す。高橋源一郎さんの『「悪」と戦う』がアマゾンのレビューで痛烈に批判されていたという話があった。この話を聞いていて、私も10年前だったら批判していたと思った。問題なのはこのシーン。



これって、カンペキヤバい、ヤバすぎるっしょ。だから、おれは、とにかく「イジメ」られないように頑張って来たんだ。良かったよ、ミアちゃんがいて。あいつは、「イジメ」られても仕方ないと思う。みんな、ミアちゃんを見てると、いらいらしてくるんだ。ただブスなせいだけじゃない。ただキモいだけじゃない。ただ頭が悪いだけでもない(その点は、おれたちみんな同じですから)。なんか、


あたしを「イジメ」てください、みんなあたしが悪いんです、あたしを見てるとムカツくでしょ? それって正常なんです。だから、みんな、精一杯、あたしを「イジメ」てね、


とミアちゃんがいうわけじゃないけど、いってるみたいな気がしてくる。


なぜって、世の中には、生きていても仕方ないもの、死んだ方がましなもの、余計なもの、って確かにいるんだ。たとえば、うちのミーコ(メスたぶん九歳)は、何度も子どもを生んでて、中には、体が弱くて、生まれた時から目が開かなくて、ミーミーいってるだけで、おっぱいにも吸いつけずに死んでゆくやつもいる。そういう子猫をミーコもしようがないなって感じで見てる。かさぶたみたいなすごいメヤニをつけて目が開かなくて手脚もおかしくて顔もなんか曲がってるみたいで、そういう子猫は必ず死ぬし、ただいつまでもミーミーいってるだけじゃ生きてるに値しない。どんな生命も大切ですっていう人もいるけどそれは嘘だ。弱い子猫は親猫からも見捨てられるし、おれはそれがほんとうだと思ってる。だから、おれは見捨てられないようにしたいし、そのためには、他のなにかを見捨ててもかまわない。ぜんぜん、オッケー。


ボコられてボコられて鼻血を出してずっと横たわっていたミアちゃんがぴくりと動くと、顔を上げて、周りを見た。


というか、おれは、そうやってミアちゃんが不思議そうに教室の中を見回しているのを、なんてこともなく見てた。


カワバタ先生は、あいからわず「脳内妄想生徒」に向かって一生懸命、日本の歴史についてなんかしゃべってるみたいだったし、ナツヒは珍しくそのカワバタ先生の方を見てたから、たぶん、カワバタ先生の売れない作家の背後霊がなんかおもしろいことをしてたのかもしれない。


それからミアちゃんはよろよろ起き上がり窓に向かって歩いていったけど、他の連中は、なにかもっと楽しいことに夢中になってて、誰も(おれ以外は)、気がつかなかったみたいだ。


ミアちゃんは窓を開け、それから、窓枠の上に、


よっこらしょ、


といってよじ登り、それから、細い窓枠に足を踏みしめ、ニオウダチになった。


あたし


とミアちゃんが大きな声でいったので、さすがに、みんなもミアちゃんがどこにいるのかはわかったみたいだった。


決めました!


というミアちゃんの顔はブスのくせに晴々としていて、でも鼻血の跡がこびりついていて、みっともなかったし、でも元気一杯で、


じゃあ、さようなら!


といってミアちゃんはいきなり後ろ向きに教室の窓から落ちたんだ。四階から地上へ。


おれは驚かなかった。みんなも驚かなかった。このガッコで今年になって飛び降りたのは五人目だった。三人は死んだ。ひとりは両脚骨折だった。三階から落ちても死なないんだ。四階なら死亡率百%だった。


あーあ、最後まで迷惑かけんだよな、あいつ、


とゴウダショウがいった。


勝手に死んでんじゃねえか、おれ、関係ないですから、


とカワキタユウトがいった。


上から見ようぜ、頭割れてるとこ、


とナガイオサムがいった。


やっぱ現場でしょ、


とイシカワナオがいって、椅子から立ち上がり、ダッシュで校庭へ下りようとした。


鳥羽伏見の戦い、といいます、


とカワバタ先生がいった。


それ、ウケル!


とナツヒが爪になんか塗りながらいった。


高橋源一郎『「悪」と戦う』より)

最悪の文章。最も「悪」。


タイトルに「悪」とあるから、ここはこの小説の核であって、「悪」を調べ尽くして、それはもう慎重に慎重になんどもなんども手直しをして、余計な力をぬいてぬいて、仕上げたんだろうと思う。


ただ、この文章をどこまでコントロールして書いたのか、どれぐらい高橋源一郎の無意識が出てしまっているのか、判別はできない。


これは中森明夫さんだったら絶対にない。中森さんは大杉栄や百年前の難しい政治状況下のことを書いても「愛」が包むから。書評家の豊崎由美さんも同様の指摘していた。これは中森さんの意識でもあろし無意識でもあると思われるのだけど、ともかく『アナーキー・イン・ザ・JP』を読んでいても、『アイドルにっぽん』を読んでいても、中森さんの文章には終始一貫して「愛」が通っているし、通ってしまっている。


さて。以上を踏まえて、『高橋源一郎=悪/中森明夫=愛』と結論付けてよいだろうか?


否。 両者とも文学性を有している。高橋源一郎さんは「悪」を呼び寄せている。かなり危険。自分自身を持っていかれている面もあるだろう。読者は分からないかもしれないけれども、引用したあたりまで踏み込んで、そこから戻ってこようとする所作はかなり際どい営みだったと想像する。


他方、中森明夫さんの『アナーキー・イン・ザ・JP』に通底しているこの肯定性はいったい何だ? 大杉栄が中森さんに憑依しているとも言えるけど、正確に言えば、中森さんが大杉栄を供養している。


このあたりで留めるが、高橋源一郎『「悪」と戦う』と中森明夫アナーキー・イン・ザ・JP』をセンシティヴに併読することをお勧めする(精神状態が悪い時にはお勧めしない)。




「悪」と戦う

「悪」と戦う


アナーキー・イン・ザ・JP

アナーキー・イン・ザ・JP










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