児童文学論序説



1.大人とは


店で働く女性店員を見ていると、既婚、未婚を問わず30歳を超えるとなんだか落ち着きが出てきて、せかせかしていないというか、「勝手なことを言わないで!」と怒られるかもしれないけれど、とてもおおらかに見える。あるフェアで森茉莉(※1)を紹介していたのも、そんな女性店員の1人であった。

私が森さんに出会ったのは、このフェアがきっかけなのだけど、それ以前にも女性作家には関心があって、俵万智角田光代多和田葉子といったあたりは、そこそこ読んでいて、彼女たちに通じているなんとも形容しがたい空気。一見、地味で目立たないけれど、何事をも見透かしているかのような鋭い視線とその文章については知っていた。ただ、このルーツ、始まりがどこにあるのかについては分からず、知りたいと思っていた。そんな疑問を持ちつつ、フェアのときに添えられていた本に対するメッセージを読んで「もしかしたらこの人かも」と浮かび上がってきたのが、この森茉莉という人であった。

[※2]
今のオトコノコは内気なことを恥としていて、恋人の映像を胸の中に深く秘めていたり、野獣の眼を光らせることをバカゲたことのように思っていて、垢のついた中年男のように女を扱おうとする。こういう男の子は大正時代の慶応ボーイのころからすでに発生していた。中年男のすることは中年男に委せておけばいいのである。今の中年の男の方が、十代、二十代のオトコノコよりずっと青年だ。少年の気分だって残している。ヘンリ・ミラーは少年のような手紙を恋人の父親に書いている。
 現在(いま)、一体どこにシラノがいるのだ?


慶応ボーイをこき下ろして、シラノ(※3)を熱望する。毒舌家であって、極度のロマンチストである。得体の知れないパワーが宿っている、そんな不気味な感じがする文章である。これは僕がいつも店で感じている、女性店員たちが発している目に見えない魔力、恐ろしいパワーと通じるものがある。疲れたそぶりも見せず淡々と働いている彼女たち。決して待遇がいい訳でもなく、強いモチベーションがあるわけでもなさそうなのに、とにかくよく働く彼女たち。

マリアは貧乏な、ブリア・サヴァランである。(※4)


毒を吐きつつもグルメであって楽しんでいて、下北沢の商店で買い物をしては氷を買い忘れ、まるでサザエさんのようだけれども、味にうるさい茉莉はマリアであって、ブリア・サヴァラン(※5)であり、つまるところ「貧乏サヴァラン」ということになる。やはり何と形容してよいのか言葉につまるが、こういう表現が出てくるところが、こういう人間性が全面に現れてくる良い意味での余裕が、こういう姿こそが、(いささか言葉足らずで強引ではあるが)「大人」と呼ぶに相応しいのではなかろうか。


2.大人の自滅


そんな茉莉さんに多少擁護されている中年男であるが、いまではどうだろうか。先日、電車の扉脇に立って新書本を読んでいたら、その視界にケータイがずけずけと入り込んできて紙面を覆い隠してしまった。いっこうに退けようとしないので、こちらがケータイが占める領域から本を抜き出して、腕をたたんで本を読み直す体勢をとった時点で、やっと気がついたのか、一瞬申し訳ないという視線をこちらに送ってきた。中年男ならぬ、50歳近いスーツ姿のおじさんだった。

昨今はケータイブームで老いも若きもみんなケータイに夢中である。単なる娯楽ツールではなく、コミュニケーションツールであり、またビジネスツールでもあるからこそ、これほどの広がりを見せているのだろう。しかし、その機能は所詮、電話であり、メールであり、ゲームであり、ネットの閲覧といった程度であることを考慮すれば、この広がりはやはり異常であろう。特にいい歳したおじさんがなんでこんなものに夢中になっているのか、さっぱり分からない。かつては、こういうものに熱中するのは若者であり、それに苛立つ大人が必ずいて、「若者(子ども)VS. 大人」という対立の構図が成り立つのが常だった。

例えば、今のケータイと同じような存在として、私が小さい頃、流行したファミコンがあげられる。ファミコンがブームになっていた時、それに熱中する子どもに対して、大人は決まって否定的だった。「頭が悪くなる」「眼が悪くなる」、何かと難癖をつけてファミコンから私たちを遠ざけようとしていた。あるいは夜、友達と長電話していた姉は父親にいつも怒られていた。「友達と話すことがあるなら、明日学校で話しなさい!」と。そうやって怒られるのが子ども(若者)の常であり、怒るのが大人の常であった。大人はくだらない(低次元な)ものに熱中する子どもに苛立ち、子どもはそれに反発する。「くだらなくはない。学校の教科書よりもゲームの方がよっぽどよくできている」などと小賢しく反論する。こういう対立が確かにあったのだ。そして、この対立の壁は堅く、崩し難いもののように思えた。

しかし、今ではどうだろうか。ケータイに象徴されるように、そうやって苛立つ大人は、苛立っていた子どもになってしまった。なかなか崩せないと思われた壁を大人の方からあっさりと崩してしまった。大人が「自滅」してしまったのだ。果たしてこれは良いことなのだろうか。


3.「大人性」の回復


将棋棋士羽生善治氏は次のように述べている。

[※6]
「子どもの集中力を高めるにはどうしたらいいですか?」
とよく聞かれるが、私は、集中力だけをとり出して養うのは難しいと思う。「集中しろ!」といって出てくるものではない。
 子どもは、好きなことなら時間がたつのも忘れてやり続けることができる。本当に夢中になったら黙っていても集中するのだ。集中力がある子に育てようとするのではなく、本当に好きなこと、興味を持てること、打ち込めるものが見つけられる環境を与えてやることが大切だ。子どもにかぎったことではない。誰でも、これまでに興味を持って夢中になったものがあるだろう。遊びでもゲームでも何でもいい。そのときの感覚であり、充実感だ。それを思い出せば、集中力のノウハウはわかるはずだ。逆に、興味のないことには集中できない。誰でも、自分が集中できる型を自然につくっているはずだ。
 何かに興味を持ち、それを好きになって打ち込むことは、集中力だけでなく、思考力や創造力を養うことにもつながると思っている。


なるほどである。このように考えれば、私が指摘した「大人の自滅」は悪いことではない。むしろ、ゲームから子どもを遠ざけようとしていた大人にこそ非があったのだと言える。しかし、子どもがゲームに熱中するのはともかく、大人までもがゲームやケータイに熱中するのはいかがなものだろうか。熱中する対象が本当にそれで良いのだろうか。「大人」であるところの森茉莉さんは次のように言っている。

[※7]
 彼ら一高生はわからない人間から見れば貧乏くさい書生だったが、実は最高にいかしていたのである。蓬髪弊帽、たくし上がった洋袴から紅い、独活のような脚を出し、泥や埃で汚れてはいるが清潔な足に朴歯の下駄をはいた彼らの眼はイエーツ、ハイネへの憧れ、ショウペンハウエル、パスカル、への憧憬に、山の湖のように澄んでいた。彼らはわざと汚れたタオル手拭いを腰にぶら下げ、ミルクホールにドカドカと入って、珈琲を飲み、洋食屋の皿めしにソースをぶっかけてくい、紅くてきれいな皿が波うつ胸の中に、自分のビアトリーチェを奥深く秘めていた。彼らがそのころの若い女の憧れの的だったことの証拠は、紅葉の『金色夜叉』の鴫沢宮の恋人は一高生だったことで明瞭である。《ただし紅葉の描いた一高生はあまりいかさなかった。ハイネやショウペンハウエルの香いがないのだ》私はエリア・カザンとジェームス・ディーンが創造した、『エデンの東』のキャルと、明治、大正、昭和(戦前の)の一高生との二つに、地上最高の若者の美と魅力とを見出した。


テレビが薄くなって、ケータイが軽くなって、切符がパスモになって、日々進化し続けている「よのなか」。確かにそう言えなくもないが、森さんを出すまでもなく、何か決定的な部分、本質的な部分は逆に退化していて、欠落してしまっているのではないだろうか。それが好ましいことだとは、私にはとても思えない。


4.異文化としての子ども

[※8]
小学校の休み時間、授業終了のベルと共に、解放された子どもたちが教室から溢れ出してくる。途端に学校中が飛びはねる小悪魔で充満し、整然とした校内の空気は騒擾の渦に巻き込まれてにわかに混沌の相を呈する。大人たちは、なんとなく手も足も出ない思いで、始業のベルを心待ちにするだろう。ベルが鳴りさえすれば、時間割という枠の中に彼らをはめこみ、強引に手綱を引きしぼって、とにもかくにも、一定の時間はひとまとめにしておくことが出来るのだから。
 自由に、エネルギッシュに動き廻る子どもたちの活力を、私どもが時として肯定し得ず、逆に一抹の不安すら抱かされて、早く制禦しようと焦立つのは、何故なのだろうか。


子どもの世界は、大人の世界の一部ではなく、その前身でもない。子どもの世界は、大人の世界とは全く違うひとつの「異文化」である(※9)と論じた本田和子さんの著作『異文化としての子ども』(※10)。言わずと知れた子ども論の名著である。ここで論じられている子ども論は本質的である。しかし「大人が自滅した」昨今においては、その内容のレベルが相対的に高すぎて、論を受け継いで進展させていくには無理があるように思う。本田さんが子どもの本質に迫る手続きとして、その大前提としているのが「大人 VS. 子ども」という対立の図式だからである。

例えば、子ども連れの家族が温泉に遊びに行ったとしよう。普段マンションの狭い浴槽につかっている子どもが、温泉の大きなお風呂を目の前にすれば、うれしさのあまり、そのエネルギーを抑えきれず、必ずといっていいほどプールであるかのように泳ぎ廻ることだろう。そして、大人は例のごとく叱るだろう。「ここはプールじゃないよ。おとなしくしなさい!」と。では、そうやって叱る大人は子どもたちに何を期待しているのだろうか。子どもに大人と同じように「ああ〜、ええ湯やわ〜。身体の芯から癒されるわ〜」なんて言うことを期待しているのだろうか。それはない。子どもらしく泳ぐことを禁じられ、また大人と同じように振る舞うことも期待されていない。つまり、この場面で子どもにはそもそも居場所がないのである。

よく見られる光景ではあるが、こういったおかしな問題がよのなかには散在している。こういう問題を糸口として子どもの本質へとせまっていく。それが本田さんの眼差しである。ところが今は、大人も子どもと一緒になって温泉で泳いでいるような、そんな「よのなか」であるから、こういった導入自体が機能しない。論を展開していくためのスタートを切れないのである。「大人 VS. 子ども」という図式の必要性をなぜ私が感じるのか。それを知って頂くためにも、「大人 VS. 子ども」という対立の図式を入り口として、本田さんがどれほど高いレベルにまで論を叩き上げてゆくのか、これについては各自で著作に触れて実感して頂きたいが、その中からいくつか紹介しよう。

[※11]
泥で遊ぶ子どもらの姿に、ある時は創造主の聖性を見、ある時は未だ文明に組みこまれざる野性の発現を見るのだ。より大人的な、つまり子どもに対する管理的な発想でとらえるなら、泥は「創造力を高める」素材であるが、同時に、「未分化、低次元」で、いつまでも泥遊びばかりしていては困る、「厄介な」媒体ということになる。そしてそれは、いずれも、泥の持つ「可塑性、流動性」に負うている。泥は「可塑性」のゆえに、子どもらを「はじまりの日の創造」へと導くのだが、また、その「可塑性」は、「無形態=分類不能=混沌」と同義でもあって、秩序世界に対する侵犯性を持ちかねない。従って、大人たちに代弁される秩序世界は、泥遊びを評価しつつ排除するというアンビヴァレンスに陥る。そんな分裂の所産が、「泥んこ公園」にみられるような、制限つきの野性の保障であろう。「囲いこまれた混沌」、ただし「絶滅されるのではなく」・・・。この奇妙なありようは、大人と子どもの間にさまざまに新しい関係を発生させている。

[※12]
子どもたちの言動は、私どもの目に、あまりにも気まぐれで不可解に見える。例えば、いま泣いていた子どもが、もう笑っている。昨日まで大好きだった玩具が、今日はもう捨てられている。野球選手志望者が、突如、宇宙飛行士の候補者に変貌する。彼らの見事なまでの非連続性、終始、首尾一貫を欠く振る舞い方は、大人たちを呆れさせ、失望させ、時には怒らせることもある。子どもとは、なんと了解困難な、意味不明の存在であることか。

[※13]
時間の本質を「流れ」すなわち連続に見るのか、あるいは孤独な瞬間の断絶と把えるかは、久しい間、不断の論争の種子とされてきた。論争の行方はさておき、先の例のように、もし幼い子どもに時間がかかわりを持つとすれば、それは、連続ではなく、非連続の「いま」であるように見える。(中略)
先の幼児の場合、彼女は、自分でクレヨンを動かしながら、紙の上に一つの情報を出現させる。彼女の「いま」は、「お城のお姫様」の形象で可視の世界に姿を見せる。彼女は、次の画面が生まれ出るときが来るまで、その頁、すなわち、自身の手で創り出し、自身が「いま」生きつつあるその世界を離れることはないだろう。お城に旗が掲げられたり、道端に花が咲いたりして、彼女の「いま」は豊かになる。彼女たちの「いま」は、単なる瞬間ではなく、長さと厚みを持っているのだ。

[※14]
子どもたちが身に帯びたこれらの徴と、彼らの生きる「複合的な時間」は、しばしば詩人のそれと重ね合わされる。例えばバシュラールは、その独特の時間論の中で、「詩的瞬間」について次のように論じている。すべて真実の詩の中には、水平に流れ去る普通一般の時間とは異なって、垂直に噴出する特別の要素が見出される。そして、それら噴出する「詩的瞬間」とは、必然的に複合的である。それゆえに、人が詩的瞬間を生きるときは、相反するかに見える二つの項を同時的に存在させて、安らかであり得る。何故なら、それは、水平に流れ去らず、同時性を継時性へと連れ戻すことがないから。従って、それは「男性性」と隠喩的に結び合わされるようなものではなく、むしろ両性具有的である。そして、この「両性具有」にこそ、詩的神秘が潜んでいるのだ。
 先に見てきたように、子どもたちの時間は、流れ去らないさまざまな「いま」を脈絡もなく包みこんで、厚みを持った「とき」であった。子どもたちが、「いま」の輝きに自足し得るのは、このゆえではないか。そして、それぞれの「いま」が相反するものを一体化させた満ち足りた全体であるとき、それらはもう時間の「切れはし」ではあり得ない。彼らにとっては時間もまた、切断と無縁なのである。

[※15]
私どもは、改めて気づかざるを得まい。「小」の世界が、単に「大きな」世界の一部でも、その前身でもなく、私どもの「大きな」世界とは別の、遙か遠くに位置する一つの「異文化」であることに・・・。その世界は、私どもの世界との間を、渡りやすい架橋で繋いではくれないのだが、ただし、私どもが、そことの交流を望むなら、地底深く流れ続ける太古以来の水脈が、密かなその響きによって、道を示してくれるであろうことに。
 そのゆえでもあろうか、私どもが「小」の世界に注ぐまなざしは、たえず、私ども「大きな」世界を逆照射する。そのとき、文化の名の下に覆い隠され、日常性の名の下に切り捨てられてきた、「非文化」「非日常」のさまざまなものたちが、その姿を垣間見せ、自明性のすべてに疑いのまなざしを投げて、私どもの足場を脅かすのである。


ここで論じられていることは、子ども、児童学者の研究テーマという範疇を遥かに超えている。ノーベル賞を獲るような科学者が構想することや、研究テーマとする事柄に高いレベルで結びついている。こういうことが可能になるのは本田さんの個人的資質によるところが大であるが、私たち自身が「大人である」という自覚を持ち、そして「大人であろう」と心掛けることこそが、そのための第一条件と言えるのではないか。昨今、つくづく思うのは、よのなか全体の「大人性の回復」の必要性である。


5.児童文学論序説


森茉莉さんを引き合いに出して「大人とはなにか」を説明し、昨今のよのなか全体に見る「大人の自滅」を指摘し、本田和子さんの力を借りて、その「大人性の回復」の必要性を説くことで、ようやく児童文学について語ることができる。

児童文学とは、本田さんの言葉を借りれば、純文学の一部ではなく、その前身でもない。ましてや、エンターテイメント小説でも、子どもダマしでもない。確固たる一つの存在である。どれでも構わないが、例えば『不思議の国のアリス』(※16)はどうだろうか。言わずと知れた定番作品であるが、やはり子どもダマしではなく、それは確固たる児童文学作品と言える。

トランプの兵隊に追いかけられるシーンが印象的であるが、改めて読んでみると、それはラストのシーンにちょろっと出てくるだけで、それまでの道中は、もう滅茶苦茶である。面白いという感覚を飛び越えて、「これは何だ?」と何とも形容し難い、珍事の連続に唖然とさせられる。

チョッキを着たウサギを追いかけて穴に入ったら・・・、アリスが大きくなって小さくなって、キノコの上に座っているアオムシが話しかけてきて、赤ちゃんが豚になって、裁判を見に行ったら、なぜか被告人になっていて、、、。とても説明できるような代物ではない。

[※17]
「さあ、起きて、アリスちゃん!」と、お姉さんが言いました。「ずいぶん長いお昼寝だったわね!」


読者はこのフレーズを読んでやっとのことで安心する。「なんだ、夢だったのか。しかも幼い子どもの夢だというのだから、道理でおかしいわけだよ」と。その後、さらにこの物語が現実ではないことが次のように丁寧に説明されている。

[※18]
ー 草は風に吹かれてかさこそいっているだけですし、池の水がぴしゃぴしゃいうのはアシがそよぐからです ー お茶のカップのかちゃかちゃは、羊の首の鈴の鳴る音になり、女王さまのかんだかいさけびは、羊飼いの男の子の声になります ー 赤ちゃんのくしゃみや、グリフォンの金切り声や、そのほかありとあらゆるへんてこな物音は、夕方の仕事でいそがしい農家の中庭から響いてくる(お姉さんはそれを知っていました)ごちゃごちゃといりまじった物音にかわってしまいます ー そして、遠くでモウモウと鳴いている牛の声が、にせ海亀の激しいすすり泣きにとってかわるというわけです。


おそらく、この箇所は、作者であるルイス・キャロル(大人)が、世間一般の大人の力量を見積もった上で、妥協して書き加えたものであろう。「もし、このフレーズを書かなければ、世間の大人たちは、わけが分からず、発狂するだろう。そして、この素晴らしい作品を、子どもたちに読ませることもしないだろう」。キャロルはそう考えたに違いない。実際、このように広く世界で読まれるようになったことから遡れば、キャロルのこの判断は正しかったと言える。しかし、本当にこの説明が正しいと言えるだろうか。私が思うに、この説明的な部分はいらない。アリスにトランプが襲いかかってきた、そのシーンで終えてしまってよい。なぜなら、その方がより正確だと思うから。

このようにキャロルの目測通り、『不思議の国のアリス』は世界中で広く読まれ大成功を収めたわけであるが、その反面、非常に大切なこと、本質的問題の次元へと切り込んで行く、その入り口を封印してしまったように、私は思う。この封印を解けば、どうなるのか?それは次のような問題へと展開していくのである。

[※19]
角塔を遠方から眺めたとき丸い塔に見えた。だからこの丸い塔の視覚風景は見誤りであるといわれる。だがこのとき、「誤り」といわれるのは、「近くで塔を見たときの視覚風景」との対比によってである。では近くで見る角塔の風景は誤りでなく正しいのだろうか。そんなことはあるまい。更に近くによって見るとそれは塔ではなく細長い建物の側面だった。あるいは、よく見れば結局やはり丸い塔だった、ということもあろうからである。更に近づけて見れば、一面の白壁と見えたのは実は無数の小さな黒点の散らばった漆喰であった、更に眼を近づけてみるとその一つ一つの黒点は暗い緑の複雑な模様を持った粒石であった、更に近づくと・・・。そして極端に眼を近づければこんどは一面ボーッとしたそれこそ「色の拡がり」の風景となろう。
 このズームレンズ的な視覚風景のシリーズの中で、これこそ間違いのない正しい視覚風景だというものはない。一つの正しい視覚風景なるものがあり、他の視覚風景はそれと照合して適合しているのが正しく、食い違うのが誤りである、というのではない。そうではなく、このシリーズの全体が寄り集まっていわば「正しいシリーズ」というものを合成するのである。そして、その正しいシリーズ(正しい射映シリーズ)にうまくはまらない視覚風景が誤りとされるのである。遠方から丸く見える塔の風景は、「単にそれ自身において見られ、他のものと関係させられないならば、本来偽ではありえない」(デカルト省察』3)のである。(大森荘蔵『新視覚新論』より)(※20)


アリスの語っていることは本当に単なる夢なのかしら。(つづく)[注1]



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※1  森茉莉『貧乏サヴァラン』ちくま文庫
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0198039258
※2  同上p.61.
※3  エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック岩波文庫
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0183207175
※4  森茉莉『貧乏サヴァラン』ちくま文庫 p.12.
※5  ブリア・サヴァラン『美味礼賛』白水社
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0196380704
※6  羽生善治『決断力』角川oneテーマ21 pp.91-92.
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105768387
※7  森茉莉『貧乏サヴァラン』ちくま文庫 pp.54-55.
※8  本田和子『異文化としての子ども』ちくま学芸文庫 pp.50-51.
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0192621929
※9  同上p.226を参照した。
※10 同上
※11 同上p.32.
※12 同上p.51.
※13 同上pp.62-63.
※14 同上pp.70-71.
※15 同上pp.226-227.
※16 ルイス・キャロル不思議の国のアリス岩波少年文庫
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0100413401
※17 同上p.221.
※18 同上p.223.
※19 大森荘蔵『新視覚新論』東京大学出版会 pp.47-48.
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0182272006
※20 大森荘蔵はすでに故人であるが、「アフォーダンス」という学説が広まる以前から、それと同じような考え方をすでに提示していた等、近年、再評価されている哲学者である。余談だが、拙者が勤めている書店においても、大森氏の著作はベストセラーではないものの、堅調な動きを示している。

なお、引用箇所は、造形作家の岡崎乾二郎氏が昨年(2006年)行ったレクチャーで配布したプリントからである。岡崎氏が大森氏に関心を示したのは、以前より岡崎氏が思考を展開しているテーマの1つである「小林秀雄の蛍」(※21)に関連してであると思われる。
    http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.26.html

※21 「小林秀雄の蛍」については、脳科学者の茂木健一郎氏もその著書『脳と仮想』(※22)で触れている。脳科学者が小林秀雄を論じるという点は斬新であり、興味深いが、この著作では、小林秀雄が考えていることを、脳科学における「クオリア」という言葉に置き換えて説明しているに留まり、残念ながら小林を超えるような視点は提示されていない。茂木氏をはじめとする脳科学者の今後の研究成果に期待したい。

※22 茂木健一郎『脳と仮想』新潮文庫
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0210129952


[注1] 本稿で触れた『不思議の国のアリス』についても「小林秀雄の蛍」との関連で論じることが可能である。拙者もぜひ、このテーマに取り組みたいが、自身の力量、与えられた時間を考慮すると、残念ながら明るい見通しが立たない。このテーマに関連する文献を挙げるに、今は留める。

【関連文献】
001 小林秀雄『感想』新潮社
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105282298
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0105366158
002 アンリ・ベルグソン物質と記憶ちくま学芸文庫
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0248009029
003 中村昇『小林秀雄ウィトゲンシュタイン春風社
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0286110106




貧乏サヴァラン (ちくま文庫)

貧乏サヴァラン (ちくま文庫)

異文化としての子ども (ちくま学芸文庫)

異文化としての子ども (ちくま学芸文庫)

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))