柴崎友香ってなにもの?









必要なのは、なにかするべきことがあるときに、それをすることができる自分になることだと思う。
柴崎友香『フルタイムライフ』)

僕の文体はどちらかというと、いわゆるドイツ系で、結論やオチがないと文章ではないという暗黙の了解に従ってしまっている。ただ、それでも一時期ほど気張ったものではなく、カントなぞ意識しょうものなら、言葉一つとっても使い方を間違える訳にはいかないというか、許されないとでもいうか、一字も書けなくなるほど窮屈になってしまうので、そういう風にならないように意識しているし、それで良いと思って書いている。


だから、以前はあまり好きでなかった、いわゆるイギリス系の文体、「結論はなんやねん!」とつっこみを入れたくなるけど、読むことによって、読者に何か深み、渋みを与えるというか、悠長に綴る(※1)というのとは、また違うのだけど、読後感を味わえるような文章、そう、内容的にはT.S.エリオットぐらいのことが言えればいいやと開き直ると、まだまだ短いけど、なんとなく書けるようになった。


それはさておき、柴崎友香というのを僕は初めて読んだのだけど、なかなか面白い文章だと思う。僕が今まで好んでいたのは、多和田葉子角田光代俵万智あたりのワセ女系の女性作家で、異性と言っても知的レベルとか、感性というのは、だいたい当たりがついて、「これぐらい書けるんか。すごいな」とか、「なかなか鋭いとこ突いてるやん」とか言って読んでいた。でも柴崎は果てしなく素(す)で綴っていくというか、「オチはなんやねん。そのままやん!」ってムカついて、「でも、ちゃんと小説になってるわぁ〜」って、そして「あっ、やられたぁー!」って感じる。男でも同じように平凡な毎日を過ごしているから、同じように書けなくはないけど、基本的にロマンチストやから、何かええこと言ってやろうとか、見せ場をつくってやろうと、ついつい力んでしまってダメになる。


ただ、これは一般的な柴崎評ということになるだろうから、ちょっと違う見方もしてみる。『フルタイムライフ』の中に一節だけ、他と微妙にトーンが違うところがあって、それが冒頭で引用したところだけど、深読みして、柴崎はこの一節を言うためだけに10章220頁を書き綴ったと考えたらどうだろう。それはそれは、もう恐ろしいほどの文筆力だと思う。200勝投手の器と言えないか?剛速球はないけど、絶妙なコントロールで凡打の山を築き、気がついたら負かされているという、そうカープの北別府投手と同じタイプ。 野球とか勝負事と結びつけたら、この子怒るんやろな。ごめんごめん。いつもの癖でついつい・・・。



※1 あくまでも個人的な感想だけど、僕は蓮實重彦の文章は嫌いで、うまいと思うけど、「この内容やったら、オレは3行で言えるで」って、つっこみたくなるのです。


(2005年5月9日)



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フルタイムライフ

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