『大谷能生のフランス革命』その読と解(その3)











《ヘッドラインニュース》



[20080518]

※ 写真家の福居伸宏さんの個人ブログbungsplatz〔練習場〕で三たび本稿を紹介して頂きました。ありがとうございます。

なお、福居さんの作品に興味のある方はこちらへどうぞ!


※ 次回更新は、2008年6月30日を予定しています。


※ 阪根Jr.タイガース
  好評連載中です。こちらもよろしくお願いします。







タイトル:大谷能生フランス革命』その読と解




その1:僕とチャーリー・パーカー


その2:再び《いま、ここ》で


その3:オープン・エンド《 金 言 集 》 (5/10 UP)



大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命





その3: オープン・エンド《金言集》





※ プロセス


001 『大谷能生フランス革命』を読む(2008.03.11〜05.09)


002 『大谷能生のフランス革命』書評(産経新聞掲載)脱稿(2008.03.19)


003 読みながら、イエローマーカーで線をひく


004 読んだ手応えから、じゅうぶん原稿化できると判断する


005 マーカーをひいた箇所を再読しながら付箋を貼る


006 ( 熟 考 )


007 『大谷能生のフランス革命』論 タイトル決定(2008.04.11)


008 ( 熟 考 )


009 『大谷能生のフランス革命』その読と解(その1)脱稿(2008.04.13)


010 ( 熟 考 )


011 『大谷能生のフランス革命』その読と解(その2)脱稿(2008.04.30)


012 マーカーをひいた箇所を再読し、もう一度心に響いてきた箇所に赤線をひく


013 赤線をひいた箇所を再読し、引用する箇所に付箋を貼る


014 ( 沈 黙 )


015 『大谷能生のフランス革命』その読と解(その3)脱稿(2008.05.10)


《 金 言 集 》




まえがき.


産経書房3月22日書店員のオススメ

1.


[ゲスト:冨永昌敬(映画監督)]より




大谷 作り手の顔が見えない作品、作り手の意図が全然理解できない作品、何の音が入っているのか最初から最後までわからない作品、そういったものを買って聴いている内に、もう音楽の歴史とか様式とかいう括弧を一旦外しちゃって、目の前にあってここで実際に鳴っているもの、っていう事でしか音楽を考えないって事を非常に実験的に考え始めたんですよ。これはそれまでジャズを練習していた人間としては大きな転換で、音の背後にその音の出自を求めないっていうのは、非常に衝撃的な事だった。なんだけど、丁寧に譜面に書かれたものでも、超絶技巧でもって演奏されてる音でも、ただ機材が「ピッ」とかいっているものであっても、レコードっていう土俵の上に乗せちゃえば、再生される手間っていうのは同じなんだから同じ場所で考える事ができるし、同じ場所で流通する事になる。僕たちはスピーカーから聴こえてくる音楽を中心に音楽を受容する生活のアレンジメントの中で生きていて、録音物を対象にして自分のリスニング・システムを設計しているんだから、こういう領域を自分の認識の世界に獲得できなければリスナーとしてもミュージシャンとしてもダメだろう、と思ったわけです。「こういうのも聴こう」っていうよりも、「こういうのが基本だろう」ぐらいの感じですね。


それまでの音楽、例えば今ここでフッと歌うとか、紙の上でやる作曲を演奏するっていう作業も大好きで、そういったものを手放すつもりは毛頭ないんですが、録音というファクターを通した時に初めて「音楽」という舞台に上がってきてしまう    それが「上がってきてしまう」のか「下がってきてしまう」のかはわからないんだけど    「歌」や「音楽」っていう人間的なものと同じ土俵に乗ってしまう、非人間的な「音」っていうものの存在っていうものにだんだん敏感になっていって、それまで全然違う場所にあったはずのものを同じ場所に乗せてしまう「録音」っていう行為の残酷さとか、恐ろしさっていうものについて考えようと思い始めたわけです。


僕がやっていた『エスプレッソ』という雑誌はそうやって始まったんですが、最初に、「録音物、録音機器、つまりレコードの針とかピックアップっていうのは、どんな音かっていうような判断を抜きに、自分に触れたものをそのまま定着させてしまう、そこには人間的な意味はなくて、我々は一回そういう場所まで降りて、そこから音を聴くやり方を再構築する必要がある。なぜなら、そういう状態に、僕たちの周りを取り囲んでいる音楽の生産と流通は深く侵されているからだ」っていうようなマニュフェストを書いたんですよ。録音される事によって一回限りの出来事としての音が、人間的な解釈を抜きにして反復の空間に連れ出されてしまうっていう事は、いったいどういう事で、どういう可能性を持っているのか。そういう事を考えようと思っていたわけです。


冨永 それは、似たような事が映画でも言えますね。


2.


[ゲスト:ばるぼら(ネットワーカー)]より




大谷 先日、家を掃除していたら『エスプレッソ』の一号が出てきたんですよ(掲げる)。もうボロボロなんですけど、三二ページの中綴じです。コンビニで刷って、ホチキスで自分で留めてます。学食でみんなで作業した事を懐かしく思い出します(笑)。版下がまだワープロですね。九六年だから、マックがない。ないっていうか、広まりつつはあったんだけど、これはOASYSで原稿を作ってますね。


ばるぼら その九六年の特集が「リスナー至上主義」っていう。


大谷 そう。でも、目次のタイトルがさ、「リスナー中心主義」ってなってる。間違ってる(笑)。あと、ここで巻頭文を書いたんだけど、それが難しすぎるって不評で、違う人がやさしいのを下に書いて、ダブルになってる。


ばるぼら やさしいのが(笑)。上が難しいやつで。


大谷 上のは僕が書いたやつで、下は森末っていう人がね、それを噛み砕いて書いてくれたっていう(笑)。非常にこの時、不満に思った事を覚えていますけど。


ばるぼら 一応、画面に『オーバーロード』を出しておきましたけど。


大谷 あ、懐かしい! はいはい、『オーバーロード』っていうのは、僕は参加してなかったんですが、横浜国立大学の広告デザイン研究会の人たちが作り始めて、で、僕はそれを読んで面白いなあと思って遊びに行ったんですね。僕はその時にジャズ研にいて、部室が近かったんで。それでちょっと話している内に、じゃあ音楽批評誌をやりましょうって事で『エスプレッソ』を始めた。正確には『オーバーロード』の前に『スピード&ラフ』という壁新聞があって、それはこの大きさ(A3)を四分割した紙にどんどんレビューを書いて、それが四つたまったらコピーして生協の告知ボードに貼る。 っていうもので・・・ここにタイトル、で、三つコラムかレビューがあって、それで一枚の壁新聞になるっていう『スピード&ラフ』


ばるぼら これ、九四年の記事なんですけど、すでに一四〇号(笑)。


大谷 それはなぜかと言うと、一号につき一ページだからですね。つまり一四〇枚。で、ばるぼら君はそれをまとめた『オーバーロード』を持っているって事ですね。読みましたか?


ばるぼら 読みましたね。『オーバーロード』も六号まで行きましたよね。


大谷 行ったね。で、『エスプレッソ』に戻ると、最初は手綴じでパチンパチンとやってたんだけど、これは四号で六六ページくらいになってて、これぐらいになるとホッチキスで留めるのが非常に大変で、やった事がある方は知ってると思いますけど、なかなか上手く綴じられない。僕は下手くそでいつも針折って怒られました。     


ばるぼら これは二〇〇部くらいですか?


大谷 これは確か・・・一〇〇かなあ。でもだんだん調子に乗ってページが増えていって、もうダメだって製本に回したのがこの七号から。これはお金がかかった記憶がある。この辺りから本屋さんにも置いてもらって、中野のタコシェとか・・・あとはこの頃からたぶんタワレコで扱ってもらうようになって凄い嬉しかった記憶がある。タワーレコードディスクユニオン、あとあれだ、ワタリウム美術館のオンサンデーズですね。で、この十一号で終わり(掲げる)。


ばるぼら 最新号。これ面白いですよねえ。


大谷 ありがとうございます。結構面白いよね(笑)。で、二〇〇二年で一応終わりなんだけど、終わりになったのは、みんな就職しちゃったから。その前の号から一年くらい経ってて、みんな就職して、でもインタビューしたから出さなくちゃならないって大変だった記憶がありますね。






2. 門松宏明


パソコンを閉じて寝転がり、手元にあった、図書館から借りてきた川上弘美著『光ってみえるもの、あれは』を読み返す。山田詠美氏の傑作『ぼくは勉強ができない』を思い出す設定だが、後半の神話的とも言える展開が独特だ。たとえば高校生などの、明らかに自我の不安定な主人公の物語を基本的に僕は読めないが、この二作は針の穴を通すように(通されるように)読まされた。自我が不安定な人の話を僕が読めないのは、たぶん僕自身が自分のいやらしさみたいなものを受け入れられていないからだろう。べつに受け入れる必要があるということではなく、だから読めないのだろう、という話。


3.


[ゲスト:岡田利規(劇作家/演出家/小説家)]より




岡田 もっと平静でいい。もっと普通っていうか。興奮してんのを、なんか恥かしいみたいな。興奮して喋ったら引かれる、みたいな意識が少しあってもいいっていうか。でも、やっちゃってるっていう。あと腕の動きが、今ここまで行ってからここまでの戻り方とかが、なんか、もうちょっとその動きが・・・戻る理由? こうなる理由がなんか。あとは・・・あ、ゴメン、今のちょっとよくわかんないけど、たまにここの力を、入れる事でできる事がある・・・気がするっていうの、わかるかな? 別に力入れてるの見えなくていい。自分の中だけで、力入れる事で何か変わればいいんだけど。





大谷 戯曲を書く段階では、まず初めに語りたい内容というか、ドラマ的なものがきちんとあると思うんですが、それを舞台でリアライズする時に、まず言葉のレベルで「この言葉でやってみたい」という事があって、で、実際に、その言葉を発する俳優が舞台に乗った段階で、「こういう風に動いてた方が自分の持っているイメージに近づくな」みたいなかたちで、だんだん振り付けというか、チェルフィッチュ独特の体の使い方ができてきたっていう進み方ですね。


岡田 そうですね、よくダラダラした身体とか、だらしない身体って言われるんですけど、それ自体がなんか、それが必要なんだなと、ある時たぶん思ったんだと思うんですよね。この言葉でやる時に、じゃあどうやるんだっていう。くり返しになるけど、その時点では演劇の身体云々みたいな事はたぶんほぼ考えていなくて、ただ、この言葉でやるのに、俳優の体にそういうダラダラした要素がないのがおかしくて、なきゃいけないと思った。ただそれは無自覚にはできない。無自覚では、舞台上で「はい、演じて」って言った時にそれが消えてしまうので、でもそれが消えるのが勿体ないから、じゃあどうしよう、という風に考えが、こう何て言うか、順を踏んでいったんだと思うんですけど。





岡田 僕が「イメージ」と言っているのは、作品全体のイメージの事を今は言ってなくて、その瞬間、その喋っている人間が描いている事が妥当なというか、何て言うんだろ、断面図みたいなものって言うかな、であって、それは作品全体のイメージではなくて、なんかもっともっと近視眼的な事で、例えば役作りみたいな事に関しても、俯瞰的に、この人はこういう人間で、こういう人生の履歴を歩んできて、みたいな事をやる事を必要とする、が必要である、というような演技論みたいなものがあるんですけど、僕はあんまりそういう事には興味がなくて、もうその瞬間その瞬間に置かれた時点で、何が頭の中にあるかっていう事だけを、その都度その都度場当たり的に、生きているっていう事を、持続したものとして作業するっていう事でいいと思っていて。


大谷 それは役者の人生の一瞬一瞬ではなくて、役の中の人の瞬間、ということですよね。


岡田 そうなんですけど、でもまあ、その瞬間これを喋っていて、その状況の中で何が描けるのかっていうのは、当然その役者個人がどこから描いているのかって普通に考えれば、彼らのこれまでの経験の総体みたいなものから来ていると考えていいと思うんですけど、っていうレベルで言うと、僕は余りその人物、自分ではない人物だからっていう事が、何て言うんだろうな、憑依が必要な行為だとか、演じるという事が、っていう風にはだから、思ってないんですね。





大谷 同じ俳優さんとか役者さんとかと作業を続けている内に、彼らのしぐさとかパターンの癖が一つ一つわかっていって、ある時期から逆にそれがもう、すぐに取り出して来れるような、どういう状況でもこの動きができるっていうような事も起こるのではないかと思います。それは利点でもあるけど、マイナス面にもなりかねない事だと思うんですが、その辺に関しては今、悩んでいたりとか、こうなってきちゃったらマズイな、みたいな話はありますか。


岡田 基本的には、体の癖みたいなものは僕はOKだと思っていて、つまり、毎回同じでもいいと思っています。と言うのも、その癖自体を本当にゼロから、様々な癖のバリエーションを持つみたいな事まで持っていく事が、なんか、何つうのかな、それが本当に正しい事なのかどうかっていうのが、これもまたよくわからないと思っているからで、現に、それなりの癖の多様さの中で一つの作品を観る時に、あ、いろんな体があるなっていう状況があれば、僕はそれでいいと思います。基本的には。ただしもちろん、ある種マンネリになっていく事は、つまらないのは当然つまらないわけで、なので、そのために僕が今とりあえずやっている事は、さっき言ったように、どこから動き出すかっていう時のその「どこか」を明確にしていく事で、あ、そうやって明確にされるんだったら、ここからこういうものが出てくるっていう事を明確にすれば、動きが、ある種明確になっていく、その事によって、今までとは違う動きが出てくる可能性があって、そこをアバウトにしていくと、癖から余り離れないものが出てきてしまう。






3. 門松宏明


イベントの前半におこなわれたパフォーマンスを見て、僕は撮影をしながら震えるほど共感した。それは感動や快楽を強要してくる力ではない、また人生の回答のようなものを示しているのでもない、共有できる問いをひたすら打ちつづける行為のようだった。どこが良いとかお薦めだとか言うのでもなく、ただその「感じ」をずっと見ていたい、そして実際に見ていられるだろうという気がした。


4.


[ゲスト:岸野雄一スタディスト)]より



 


岸野 フランス革命になぞらえて、関連づけて話しますと、最後にちょっと言いたいのは、我々が一番歴史の上で学びとった事は、悪い王様を殺せば、世の中が良くなるわけではないって事ですよね。それをこんなに学んだのに、何でまだ、何か巨悪を設定して、それに石を投げれば済む、と思ってるんだろうっていう事だよね。


大谷 そうですよね。法律を変えれば生活が変わると思っている人がいるみたいで、あれが不思議でたまらないですね。例えば憲法九条を変えれば戦争に行く事ができると思うっていうような話があるんですけど、べつに、変えても行かなけりゃいいじゃんって思うんですよね。戦争に行く事が法的にOKな国だって、そんなに簡単に派兵しないだろうし、もちろんそこには様々なレベルがあるわけなんですけど、何かを変えればすぐにこうなるとか、王様変えればラクになるとか、凄くダイレクトな、非常に単純な考えの人が多いというか。そうじゃないって事を、ずっとやってきてるはずなのに。


岸野 それはみんな、一人一人で問題があるんで、もう、この『お弁当革命』を読んでですね(掲げる)、日々の革命の事を考えて頂くっていうのが、大事なんじゃないですかね。隣の席の人におかずをあげるとか。


大谷 そうですね。毎日のお弁当にね、一品二品を加える知恵がここに(笑)。






4. 門松宏明


前半のトークのあと、休憩をはさんで「ヒゲの未亡人」のライブがはじまった。一曲目の途中から、歌うときの軽快な動きと汗のせいかヒゲが何度か床に落ちた。しかし未亡人(ゾラ)はそんなハプニングさえも巧みなMCに昇華して、絶えない美しい楽曲と、独自の表現力をもってステージを終えた。それは僕の心臓の向こう側に永く眠っていた多幸感を快復させた。無限に楽しく、深く、かるい。ポップで、広がりがあり、こんなに痛快な気持になったのっていつ以来だろうと思った。あたかも自分が何かをやりきったような気持になって拍手をした。





小林幸子が歌ったのは『越後絶唱』という、画面下に出る歌詞を読むとどうやら新潟でおきた地震の被災者へ向けた内容であるようだった。それはいい歌で、これを聴いて励まされている人は大勢いるだろうな、と思った。そのイメージは、昨日読んだばかりの村上春樹著『意味がなければスイングはない』の中にある、ウディー・ガスリーについて書かれた評伝『Woody Guthrie, A Life』を引用したこんな部分につながっている。


「彼が歌うと、時には大の男たちが目をうるませ、合唱するときにはその声は震えた。母親から教わった感傷的な古いバラードが、同郷の人々の心を結びつける絆になった。そして今は流浪の民となった彼らにとって、そのような歌だけが、あとにしてきた故郷につながるよすがだった。(・・・中略・・・)それはただの娯楽にはとどまらなかった。彼は歌うことによって、人々の過去をそこによみがえらせていたのだ」(二六六頁)


5.


[ゲスト:志人(詩人/降神MC)]より




志人 小説みたいに目で追っていく文章と、口に出して伝える文章っていうのはまた違うっていう話で、最近ちょっと、二〇〇五年ってどういう風景だったかなっていうのを書いてみたんですけど。これは、私なりに記すと書いて『私記(しき)』というタイトルで、最初は小説として書いてたんです。口に出して読むのではないものとして。


大谷 口に出して読むのではなくて、紙に書いて、本として黙読する事を前提とした文章、という事ですね。


志人 そうですね。最初に小説として書いていた文章では、どういう風だったかと言うと、


   《私記 二〇〇五年の光景》

一年の過ぎし日 思えば遠し 見やれば近し

四季の香りの訪れと共に 新たな友と手をかわし

忘れた事も忘れて 全力で時が過ぎていく

旅の居心地のまま風に揺られれば 腹が減り

メシを探すのに少々時間がかかってしまえば

あっという間に陽が落ちる

浅い眠りを待つよりも

発明 想像 空想を手にする前の思慮深い夜を見よ

覚醒 起床 溌剌とはほど遠い

冷たくもあたたかい朝日を肌に感じて

中断された夢に 失望した朝が来る

しかし どこか清々しくもあるそんな表情の青空が

見えればあいつと待ち合わせに

見えなければ小説を三〇ページほど書くだろう

志人 まあ、こういう冒頭なんですけど。これをちょっと書きかえて、口に出して、こう読んだら面白いんじゃないかっていう時には、


   《私記 二〇〇五年の景色》

一年の過ぎし日 見やれば近し 思えば遠し

四季折々の香りの訪れと共に ひと文字ひと文字

ことのはも色をかえ

道通りに一様に咲く日常に虹をかけたる

よりどり緑の森の中で

ノリノリになりながら実りの祈りを捧げてみたりする

みたび見やる空の色をポラロイドで収め

一生の刈る意匠を持たす雨に打たれ風に吹かれながら

必至に前に向かい

一日を生き生きと生き

意気投合した仲間と遠くを見つめながら聴き入れる美しき音楽は

無意識の意識がビシビシと降りしきるシムシティという名の敷石の上

にある

焦る気持ちをおさえる幻都 色あせぬ思いを馳せるペンで燃焼させる

ジェネレーションXが生んだY軸の事象

イコール退屈な日常をかいくぐるミッション

志人 という、違う流れの物語になっていくというか・・・。


大谷 かなり違いますね。というか、話自体が違うんじゃないか? っていうぐらいですけど(笑)。そうすると、これは、書いている段階で口に出して読む事が前提となっているから、そのリズムに従ってイメージが全然違う風に流れていっちゃうって事ですか?


志人 そうですねえ・・・書いている時の感覚としては、自分はまだやった事ないんですけど、仏教の写経のような感じで、口に出して呼応しながら書いているので、例えば、「過ぎし日、降りしきる、無意識、ビシビシと」っていう風に、「過ぎし日」の中にも「ビシビシ」とか「無意識」とか「美しき日」とか、呼応するものが繋がっていて、それを何度も何度も口の中で唱えると、感情が生まれてくる。


大谷 感情が生まれて、イメージに繋がっていく・・・発話しながら言葉の連なりを作っていく場合には、そういったイメージの呼応の方を重要視するという事だと思います。口がスムースに動く事によって生まれる世界というか、そうやってできたものじゃないと、おそらく聴いている人も言葉のイメージを、その聴いている現場のスピードで広げる事が難しいんじゃないか、という事もあるように思います。例えば、散文の朗読を聴いている時は、聴いた音を頭の中で漢字に変換して、それからもう一回ひらがなに直して、さらにそれが一つの単位となる、ある文章の末尾まで辿り終えてから初めて、それまで聴いてきた音が文脈の中で意味を形作る。要するに、耳で聴いていても、時間の推移に従って意味が作られていくんじゃなくて、ある種、耳を傾けている間の時間は宙吊りになっているわけです。でもラップっていうのは、まあ歌もそうですが、口の動きに従って意味が展開してゆく。聴く人もプレイヤーの唇の運動をそのまま自身の唇に映して、で、そういった動きの中で、イメージや意味が明滅するように現れていく。こういったところが朗読とは大きく違っているところだと思うんですが、この運動や時間の違い、意味を作るために時間を塞き止める事と、運動とともに意味が自然にできてゆく時間の中で語るって事とか、そういった言葉によってできる複雑な作用の色々を、ステージの上では全部使ってみたい、そういった効果を色々と取り混ぜて世界を作っていきたい、っていう気持があるように思うんですが、いかがでしょうか?


志人 どうでしょうね・・・ただ今日の場合は、本当にどうなるのかわからなかったから、どうすれば面白い感じでできるのかなっていう事を、実験しつつやってたみたいな感じなんですけど。


6.


[ゲスト:宇波拓(音楽家)]より




宇波 でもマッティンに出会って、「俺は甘かった」って思いました。


大谷 あはは(笑)。


宇波 それで、一昨年かな、一緒にヨーロッパ・ツアーをやったんですけど、そこでもう、いわゆるインプロみたいのはいいや、と思いましたね。サン・セバスチャンでやったのはとくにスゴかった。


大谷 その時は、今のセット?


宇波 今のセットよりもうちょい小っちゃい。でもマッティンはもの凄い爆音だから、もんの凄いバランスの悪いディオで。俺はカタカタカタッてやってるんだけど、マッティンはもう、この世のものとは思えない爆音を鳴らして。だからそれで怒って帰っちゃった人もいっぱいいるんですけど、あれは楽しかったですね。俺の音、なーんも聴こえないっていう(笑)。その時やってた演奏っていうのは、僕らは事前の打ち合わせを何もしなかったんですけど、演奏時間五〇分だったら、まず一〇分間の沈黙で、マッティンが二〇分間ゴオオォォォーーーッてやって、一〇分空いて、俺が五分カタカタカタッてやって、終わるっていう。そういう即興ってないよなって。そういうの、理念としては思いつくじゃないですか。何があったって良いわけで。でも、何でもアリって事は言うけど、これやった人はいないんじゃないかなあ? って。


大谷 何でそんな演奏になったの?


宇波 わかんない。でも、ちょっと相談したりとかはして、バランスがマズい事をしたいとか。っていうか、バランスの良さとは何ぞやっていう、まんべんなく音が入っていれば良いのかとか。だからそのマッティンとのツアーで、鳴っている音っていうのはどうでもいいんだなって思って。なんか、そのサン・セバスチャンでやったライブっていうのが、また例によってマッティンが爆音で、MP3でディスコの何か曲を流しまして。普通、ピッチ変えたりとかするじゃないですか? しないんですよ。丸ごと一曲、ズッタン・ズッタン・ズッタン・イェー! って。ただそれだけ。四〇分ぐらいかな、そのセットで彼がやった事はそれだけなんですよ。あれは俺、泣きましたね。しばらくその余韻でね、音楽って自由だなって、凄い救われた感じがしましたね。





大谷 チャンス・オペレーションでやるとか、そういう事?


宇波 チャンスと言うより、呪いと言ったほうが近い。


大谷 ああ「呪い」っていうのはもの凄くよくわかるなあ。呪いだよね。人知を超えたものなんだけど、確実にそこにあって、避けられなく発動しちゃうみたいなものでしょ? 意味とか関係なく出会っちゃうみたいな音って事で、うん、それは「呪い」ですよね。


宇波 それぞれの演奏者に、別々の呪いをかけたんですよ。それで、僕はその呪いが全体としてどういう悪魔を呼び出すのかっていう事は知らないんですけど、まあかけたわけです。で、やってみるまでわからないんですが、実際、今日の曲はそういうので作ってますよ。まあチャンスの一種なんですけど、そういう風に作っています。ある暗黒神の名前を、アルファベットに置換して書いたり。






6. 門松宏明


英語の歌詞の曲をどうして聴くんだろう? という問いは、もっと子どもの頃からあった。どうして意味のわからないことを歌っているのに、それを聴こうとするのだろう? フジテレビで放映していた子ども向け番組『ひらけ!ポンキッキ』の中で、ビートルズの『Please Please Me』が流れる短いコーナーがあって、僕はそれがとても恐かった。ほんの十五秒ほどだったけど、その響きはすごく強迫的に体に届いた。もしかすると、その体験が僕を「外国音楽恐怖症」的な状況に追い込んだのではないかと思うほどだ。


そんな高いハードルをかいくぐり、歌詞がわからなくても「良い」と思えたはじめての外国音楽は、奇しくもビートルズの『抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)』だった。これだけは、意味がわからなくても何度も聴きたいと思った。


高校に入って、僕はXTCのアルバム『Oranges & Lemons』に出会った。とくに、シングルにもなった二曲目の『Mayor of Simpleton』があまりにも良くてひっくり返った。一曲の中で様々な調子が生まれては消える。聴いているうちにどんどん愉快になって、笑いながら椅子から転げてお腹がつってもうやめてくれ! と言っているにもかかわらずまだその愉快さをグイグイ押しつけてくるような、頭が溶けるほど好きな曲だった。歌詞カードをよく見るようになり、しかし同時に、とくに歌詞の内容を把握しなくても鳴っている楽曲をたのしめるようになった。それはもしかすると、歌詞の内容と楽曲を聴いているときに胸の内で起こる感動とのあいだに、分かちがたい関係があるようには思えなくなってきたからかもしれない。


その高校で僕は美術部に入っていた。一年生のときに、同じ学年で唯一人の部員からレッド・ツェッペリンのベストアルバムを借りた。そして石膏デッサンの上手かった部長からディー・ライトの『World Clique』を借りた。「良い」とも「わかる」とも全然思えなかったが、明らかに新鮮な世界として衝撃を受けたことを憶えている。「どうだった?」と部長から聞かれ、「ボーカルの人の声が綺麗だったです」と応えた。部長は『rockin ' on(ロッキング・オン)』を美術室で読んでいて、その表紙はペット・ショップ・ボーイズだった。


7.


[ゲスト:RIOW ARAI(トラックメイカー/プロデューサー)]より




質問者B 機材の話で、一番初期のダブルカセットを使っていた頃っていうのは、機材が一つ増えるごとに広がる可能性というか、選べる手札の種類みたいなのが劇的に変わりますよね。最初はメモリーが全然なかったとか、サンプリングが二秒まで使えるようになったとか。そういう時期って、そのヴァージョンアップに伴って出てくる作品とか、作り方が、機能の増え方によって、ある意味引っ張られてくるところがあったんじゃないかなって思うんですけど。


R.A ありますね。


質問者B パズルゲームみたいに、もう一つこんな機能が増えたらあれができたのに、とか、微妙に足りないから工夫しなきゃ、みたいな。その工夫のしようっていうのが、ある意味一番発揮される時期だったんじゃないかって。でもコンピューターがどんどん発達して、これもできる、あれもできるってなってきて、サンプリング素材とかも今まで自分の持ってるレコードからしか使えなかったのが、何千曲も選べるようになってくると、最初の頃の工夫の仕方っていうか、機材の更新によって牽引されていた動力みたいなものは少なくともなくなると思うんですけど、そういう時に残るものがあるとすれば、それはどういうものなのかな、と。


R.A もう今は、PCの機能的に言えば足りない機材っていうのはないはずなんだよね。だから、この八五年だったら、一個欠けたらできない事とかはっきりしちゃうんだけど、その不足がないっていうところで「何を作るか?」っていうモチベーションのあり方はどういったものか?みたいな事だよね。それはもう、たぶん、音楽を作りたいっていう、そういうシンプルなモチベーションしかないっていうか。今は道具が揃ってて、誰でもできるんだけど、でも、やっぱり誰でも音楽をやるわけじゃないでしょう。例えばジョン・レノンがピアノ一台で『イマジン』っていう曲を作ったとしても、ピアノがあるからって誰でも『イマジン』を作れるかと言えば、それは作れないですよね。それだけの話っていう気もするし、そのシンプルさについて疑問を持っちゃうかどうかって事が、やる人とやらない人との違いなんじゃないかな、と。それくらいしかないですよね。


大谷 うーんと、「機材が揃っているから何でもできる状態にある」という事はたぶんなくて、可能性が広がってるっていうのは、「今から見て昔はこうだった」っていう話だから、現在にいる人としては、常にいつも可能性は同じなんだと思います。確かに八三年のセットと今を比べたら、表面上は選択肢は増えてるんだけど、そこがスタートだった人にとっては常に足りてない、という感じで・・・。でも、これまでの二〇年間が機材の進歩によって音が牽引されてきた時代だった、という事も確かにあって、ここから先にそういったテクノロジー幻想がポジティヴに持てるか、といったら難しいと思います。でも、それはしょうがないんで、それこそ機材なんかなくてもやる人はやる、って感じになってくんじゃないでしょうか、これからは。


8.


[ゲスト:西島大介(マンガ家)]より




西島 □□□(クチロロ)とかも僕は同じようなものを感じていて、やけくそ感ってひと言で言っていいのかどうかわからないんですけど、めちゃくちゃだなー、と思うんですよ。僕は□□□の『パーティ』っていう歌が一番好きなんですけど、彼らの歌うパーティというのは、m-floとかが「パーリピーポー!」とか言うパーティじゃなくて、磯部涼さんが言うところの、一〇〇人ぐらいしか集まらないパーティ。それはいい言葉だと思うんですけど、そういう小さいところから発信されるっていう意味では、SF界も一〇〇人ぐらいのパーティだし。


大谷 ある種の顔の見えるところで質を共有している集まりがあって、そこから同じような感覚を持った人たちがバーッと物を作り始めているっていうところが、パーティというものから感じられるわけですよね。


西島 そうですね。□□□の場合は、さらにそこからもうちょっと違うところへ出ようとする意志を感じるし、突破口を見出していると思う。






8. 門松宏明


本というメディアは、人の思想をもち歩けるという特性から捉えることができるけど、実際に本の中でまったく同一でありつづけるのはページに印刷された文字だけで、その文字というのは作者によって考えられた、あるいは読み手によって考えうることの、いわば氷山の一角として見えているものに過ぎない。だからそこから読まれる(受け取られる)内容は、読み手の体調や、読んでいる場所などの、その時々で変わるはずだ。


(中略)野口悠紀雄氏による『「超」整理法』では、「本の整理は絶望的だ」(八一頁)と言われているが、それは本という媒体が、秩序にあらがう性質をもっていることを端的に示しているのではないかと思う。本は、その同じ大きさに揃えられたページの束の中にとてつもない混乱を内包しながら開かれるのを待っていて、世界に本が生まれるほどに、世界の秩序は壊れていくだろう。本は、情報を整理するために生まれたものではなく、世界における情報の混沌とした様子を知らせるために生まれたのであり、美しく収納された本棚の中でその本来の声を上げることができない本の姿をいま僕は思い浮かべている。


9.


[ゲスト:小川てつオ(アーティスト)・狩生健志(作曲家/ギタリスト/レコーディング・ミキシングエンジニア)・(音がバンド名)サウンドパフォーマンスアーティスト)]より




狩生 俺は今日は、小川さんは強いなって、強さを感じましたね。適当にやっても、小川さんは強いなって。なんか、物みたいじゃないですか。人間っていうより。合わせる/合わせないって以前に、とりあえず物が横にあるっていう。


大谷 狩生君は、そういう風な「モノ」的な方向の演奏はできない?


狩生 俺はね、それをやりたいと思っているけど、修行の段階にいるっていう。まだ全然、物になってないですね。


大谷 こういうところに放り込まれると、わりとバランスを取る方向での演奏が多くなるって感じ?


狩生 あ、俺すか。そうすかね。でもね、それはやっぱり強さの問題で、こんだけ強い物体があると勝てないから、どうしようって、まず逃げ腰から入りますね。


大谷 逃げ腰(笑)。


狩生 みんな、あんまり経験していないと思うけど、ライブやりますって言って、いきなり横で爪切り始められたら、やっぱり結構困るもんなんですよ。俺ねえ、本当にショック受けて。爪かよって。しかもなんか、切った爪も置きっぱなしだったじゃないですか。まあ、こういうのでスッキリ上手くいったっていう事はないですけど、でも俺は、今回凄く困って、ああーやだなあって思ったけど、今思えばそれは良かった。たぶんそうなるだろうって、やる前から思ってたし、予定通りそうなって、嫌な思いをして満足して。


大谷 その経験は「良く」はないんじゃないですか?


狩生 え? いやいやいや、それっすよ。俺が言いたいのは。


大谷 人前に出ないと経験する事ができないから、それが経験できて「良かった」って事?


狩生 っていうより、それは普段は考えていなくても、責任みたいなものっていうか、楽しませなくちゃいけないとか、お金を払って観にきてる人がいるとか、そういう事もあるわけじゃないですか。でも、自分が今やってる事と、ギャップがあるわけじゃないですか。だからたぶん、もし俺が今のライブを見て一七〇〇円とか払ってたら、ちょっとあれかな、ビデオとかレンタルした方が良かったかな、とか思ったりする可能性がやっぱり、やっている時にもたげてくるんですよ。で、それとの戦いをやって、敗北したしたんですよ、今。終わった後に、今日はもう負けたなって。小川さんはやっぱり、強いじゃないですか。


小川 俺はね、強いっていうか、やりながらねえ、やりながら、ちょっと強く出すぎてるかなって思った。


狩生 それは凄い、勝者の視点ですね(笑)。小川道場みたいな感じになってますけど。


小川 いや、場がね、ほら、途中でやめちゃったし。場を支配しかかってるなって。


狩生 すでに支配してましたよ(笑)。


大谷 俺は、狩生君がちゃんと受けてくれると思ってたんだけどね。


狩生 え、爪を? 爪を受けるって、具体的に何の事? 大谷さんはどう受けるんですか、爪を?


大谷 俺はとりあえず、サックスを吹くよ。


狩生 俺もリズムマシンを使って、受けるっちゃ受けてますよ。


大谷 や、だからプレイヤーとして、これをやるって決めている事があったら、それはやるっていう事。打合わせもしてないし・・・でも狩生君は演奏の進行とか、場の事を色々考えるんだね。勝ち負けみたいなものとかも。


小川 勝ち負けって事はないんだけど、途中ね、もっとグググーッて、引っ込もうかな、自分は引っ込んだ方がいいかなって思った。なんちゅうか・・・。


大谷 場が均質化しちゃうと、一回引こうかなって思いますよね。


小川 そうそうそう。このスピーカーのね、裏に隠れるスペースがあったから。


狩生 師匠が隠れてしまった、みたいな。


大谷 でももうちょっと、狩生君には頑張ってほしかったな。


狩生 俺に? ああ。いやいやいや・・・そうすか。いや、俺はこの程度の人間ですよ。


10.


[ゲスト:杉田俊介(文芸批評家/介護労働者)]より




杉田 取材とかを受けていても、結構ストーリーに乗せたがるというか、夢を挫折して、とてもつらいフリーターの人生を過ごしたけど、今はなんとか正職員として頑張っています、的な物語を用意されるんですけど、実際にはそんな事はなくて、TVドラマなんかでも、難病の主人公だっったりすると、だいぶストーリーになりやすいかと思うんですけど、ヘルペスで、とか、そういうストーリーっていうのはちょっと作りにくいのかなって。例えば、前から思っているんですけど、アトピーの人の身体っていうのは、自分にひどい時があったから言えるという事もあるんですけど、わりと面白いんじゃないかと思ってるんですよ。でも要するにそれも、注目してみると面白いものなんだけど、なかなかドラマツルギーには乗りにくい、TV的ではないんじゃないかって。


大谷 ドラマにはなりにくい。マスメディア的なストーリー、とりあえずTVなんかで展開されているようなかたちでのお話に、フリーター的な存在のあり方を当てはめる事は、現在のところでは難しいというか、そういった「弱い」要素で物語を組み立てていくには、文法や構造自体を変えないとダメでしょうね。ゴダールの話じゃないですけど、もうこの時間には付き合えないってぐらいの長さで一つのシーンを捉えるとか。弱い要素、ダラダラした要素でもって物語を語るっていうのはチャレンジングな事だと思うので、ヘルペスもの、アトピーものってジャンルで(笑)、頑張っていきたい気もしますけど。


杉田 そういう中から物語を立ち上げると、どういう物語が出てくるかな、と思うんですけどね。






10. 門松宏明


たとえば子どもの頃などは、知覚される情報の多くがその以前とは異なる新たな経験であるわけだから、目の前で起きていることの大半が意識上にのぼってくるが、年齢を重ね、多くの状況を「すでに体験したことがある」、いわばコピーのような体験として感じられた際には、それらは「なかったこと」として、意識化されずに流れていき、わずかな新鮮な体験だけが意識に残る、ということがあるのではないだろうか。


ところでしかし、「いやな時間」というのは何歳になったところでなかなか過ぎない。前回のフランス革命でも、杉田さんが「深夜に警備のバイトなどをやっていると、まったく時間が過ぎていかない。時計を何度も見るんだけど、そのたびに数分しか経っていない」なんてことを言っていた。もしも年を取るほど時間が早く過ぎると言うなら、このような「いやな時間」さえ高齢になるほど体験しなくてすむようになっていくはずではないか。しかし現実においてはどうやらそのようなことはなく、何歳になっても苦痛は執拗に、「なかなか過ぎてゆかない」という体をとって現れる(少なくとも僕はそうだ)。あるいは先のルール、オリジナルな経験のみがつねに記憶に残っていくことを前提に考えるなら、「いやな時間」というのは、幅広い、つねに新たなヴァリエーションをまとって現れてきて、そうであるがゆえに、削除用フォルダには振り分けられないという性質をもっているのかもしれないが。


11.


[ゲスト:堀江敏幸(作家)]より




堀江 聴こえなかった音を、果たして人は思い出せるだろうか、ということを、今話を聞いていて初めて思いました。つまり、最初から聴こえない人ではなくて、徐々に聴力を失っていった人が、昔聴いた、忘れられないような音をね、どうやって思い出すのか。聴こえているのか、いないのかもわからないし、聴こえたのだとして、それが本当に過去のその時に聴いた音だったのか、という事が、どうなんでしょう、音だけを聴いて、体の記憶が震えて、思い出されるなんて事があるのかな。ヘレン・ケラーじゃないですけど、その音が聴こえた時の状況をまるごと全部思い出して、それが初めて音になるんでしょうか。とにかく、しぐさっていう事を考えると、反復の中に入っている様々な時間の堆積が音になっているんだろうなって、そういう風には思いますね。


(中略)書いたというよりは、その主人公をただ後ろからずっと追っていただけです。本当に音だけが再現されればいいのかって、彼に聞いてみたいですよね。でも、僕はどっちもありなんじゃないかって思う。だからある音を思い出すと、必然的に、何か別のものも思い出す。味なんかもそうですよね。こういう味をどっかで食べた事があるっていう時に、なぜその味を今感じられたのかって考えると、気温とか、湿度とか、昨日の夜の睡眠時間とか、その前の三日間ぐらいは何を食べたとかね、いろんな事が重なって、それで初めて、その同じような味に行き着いたと、感じるんじゃないでしょうか。そう考えると、やっぱり奇跡的な事ですよね。だから、人間の出会いじゃないですけども、もし同じ音を聴く事ができたら、それが全く同じではないのにもかかわらず、同じだ、という風に思ったという事は、大変な事件なんじゃないかって。雨の音でもね、渋谷の雨と、新宿の雨とでは違うのかもしれない。湿度の高い時の雨の音と、もうちょっと何かこう、にわか雨の音とか、違うと思うし、その後の匂いも違いますよね。だけど、何らかの偶然でそっくりな匂い、そっくりな事、そういうのを味わった時っていうのは、僕は、わけもなく、心動かされる。それは、過去が懐かしいとか、思い出せて良かったっていう事じゃなくて、それを二回重ねられて良かったって。重ねられたっていう事は、またあるかもしれない。それが嬉しい。それが重ねられた時にまたもう一つ違うなにかがひろがる。それは時間がやっぱり、積み重なっているって事なんじゃないかなって思うんですよね。そういう話がもしかしたら、ここには書かれているのかもしれない。






11. 門松宏明


帰り道、今日の説明のために作ってきたA5判三二頁のダミー冊子を読み返した。我ながら、限られた時間でそこそこやっているのではないか。・・・しかしどんなに準備をしてみても、いやむしろ準備をするほど、その努力は報われなくなっていく気がしている。用意した資料の大半は、使われないままもち帰られる。


でもその報われなさこそが、ある意味では僕が今後やろうとしていることにとって不可欠な要素であるようにも思う。堀江さんの『河岸忘日抄』にも、こんな一節があった。


「老詩人は彼の肩を抱いて、大声で笑った。よかろう、きみは正直者だな、みんなの人生に必要な男だ、要するに、これからつねに損をするやつだということだよ!」(一三八頁)


12.


[ゲスト:佐々木敦(批評家)]より




佐々木 じゃあ、書評とかで出てさ、これはこうなんだ、ああなんだ、みたいな事を言われたら初めてそこでわかるかも、という感じ?


大谷 そうですね。そういう風に見えるんだなあ、という事はあるでしょうね。何だろう、複数性というか、自分で書いた文章を人に任せるとか、自分のプロフィールは人に書いてもらうとか、そうやって、できるだけ閉じないように、脇を開けておくように、人がこれから入ってこれるようにする傾向はありますね。


佐々木 ああ、そういう感覚はあるよね。


大谷 自分の音はどこかの誰かがまとめて初めて何かになるとか、サックスを録音をしたら編集は誰かに任せちゃうとか。音楽の現場もそうなんですけど、結局、誰かと何かを一緒にやっている、という事なんですよ、僕の仕事のほとんどは。


佐々木 そうね。コラボレーションの人だよね。


大谷 誰かと一緒に何かをやる。決して自分だけで終わらせない。形式的にも内容的にも。自分でできるのはここまで、って事で、あとは他の人に任せる。『エスプレッソ』だって集団戦だったわけだし。人と会っている時、誰かとやる時には、何かしら隙を作るというか、広がりを作るという状況じゃないと、落ち着かないんですよ。


佐々木 ああ、うん。隙を作る、みたいな感覚はよくわかる気がする。


大谷 そういうのが凄く強いですね、隙間で考えるっていうか、隙を考える。文章ってのはどうしても一人だけの、抽象的な作業空間での出来事なので、そこばかりに深く関わってると危険信号が出る、みたいな感じで。


佐々木 まさにそれが批評家・大谷能生の特徴で、たぶん大谷君の魅力の一つでもあると思うんだけど、つまり、何か新しい主張というか批評的なスタンスみたいものをガッチリと押し出す事によって世の出てくる人もいるけど、でも、そういうのが嫌な人もいるわけ。


大谷 嫌ですねー。というか、自分では苦手なんで、できない。


佐々木 うん。だからそういうのが嫌な人たちにとってのエースみたいになっている部分は、明らかにあるんだよね。でも僕は、それは諸刃の剣だと思う。結局それは、良くも悪くも批評的な強権みたいな事に対するアレルギーの受け皿になっちゃう可能性があるわけ。だから、やっぱり僕は、大谷能生自身がもっと光ってほしいと思うんだよね。


結.


オープン・エンドという事で、この続きはまたどこかで。



( presented by 大谷能生門松宏明





大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命




※ photo by montrez moi les photos







《次回更新予定日 2008年6月30日》



《イベント情報》

大谷能生門松宏明
『今、ここでフランス革命』フェア


於:ジュンク堂書店新宿店7F芸術書コーナー


※批評家・佐々木敦さんから頂いた直筆ポップなどについて共著者の門松さんが渾身のレポートを書いてくださいました。


※『エスプレッソ』(大谷さんが編集していた音楽批評誌)品薄です。再入荷する予定ですが、お早めに。

その他のイベント情報は、大谷さんのウェブサイト《大谷能生の新・朝顔観察日記》をご覧下さい。






阪根Jr.タイガース


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