古谷利裕×磯崎憲一郎トークセッション




 


 古谷利裕『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)刊行記念



 タイトル:小説を読む歓び


     ー 作品生成の瞬間 ー

■ 出演


 古谷利裕(画家)


 磯崎憲一郎(小説家)



■ 日時: 2010年2月20日(土)15:00〜16:30



■ 会場 : ジュンク堂書店新宿店





   《感想文:ガチトーク




 



■ 『文学界3月号』。いつもは図書館で読んでるのだけど、この前行ったらまだ入ってなくて面倒だから買いました。で、山下澄人が240頁で保坂和志が242頁なの。続いてるの。これが笑っちゃうぐらいつながってるの。それで今日のトークなの。そんでイソケンさんが入場してホワイトボードを眺めつつ言った第一声が「ショーン・ホワイトすごいよね」なの。滅茶苦茶なの。「イソケン!おまえもか!」って頭抱えたの。そしたら古谷さんが素っ気なく「知りません」って言ったの。「国母くんまで出てきたらどうしよう」ってもう冷や冷やだったからさ、古谷さん、よくぞ言った。「イエス!」って心のなかで叫んだの。が、胸をなで下ろしたのも束の間、ここからが本当に大変でした。。。



まずはトークのタイトルを確認しておきましょう。



     小説を読む歓び


   ー 作品生成の瞬間 ー

これは保坂さんが古谷さんの本に寄せたコメントからとったんです。保坂さんのコメントも確認しておきましょう。



これまで読者は批評という俯瞰の視点に捕われて作品生成の瞬間から取り残されてきた。まず 「はじめに」 を熟読してほしい。著者がここで書いていることはとても慎ましやかだが、これは読者を批評的行為でなく、純粋に読む歓びの次元に誘う宣言でもある。宣言が声高でなく呟くようになされる。これが現在だ。大向こう受けをねらわず、社会におもねらず、古谷利裕はひたすら誠実に読む。しかしこれは凄いことだ!(保坂和志

古谷さんの本のタイトルも確認しておきましょう。


人はある日突然小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる



それで仕切り直しのイソケンさんからのファーストコンタクトがまさにこれ。ちょっと長くなるけど引用します。



人はある日突然小説家になる。これは驚くべきことではないだろうか。あるいは、あまりにも理不尽で暴力的なことだと言えないだろうか。例えば磯崎憲一郎は『肝心の子供』で文藝賞を受賞して小説家になった。それは、ある日、何人かの人たちが集まって協議し、その結果、その作品を受賞作としたことによる。そしてその結果が確定した瞬間、受賞者は、小説を書いている人から小説家になる、あるいは、小説家は芥川賞作家になる。本当は、その人は、受賞作を書いているその過程をつうじて、あるいは、それ以前に書いたすべての小説を書いている時間のすべてのなかで、少しずつ小説家となっていったはずなのだ。いや、そうではなくて、人生の時間のすべてをかけて、少しずつ小説家になってゆくと言うべきかもしれない。あるいは、受賞より前にもう既に充分に小説家であったとさえ言えるのかもしれない。しかし、そうであるのと同時に、それとはまったく別の次元で、デビューが確定したその瞬間に、あるいは、それを受賞者が知った瞬間、その人はとうとつに「小説家」へと変質する。その瞬間に、その人自身に特別な物理的な変化があったというわけでもないのに、ある決定的な変化が、外側から訪れ、その人に貼り付き、それは非常に強い力として作用するのだ。そんな変化は、たんに社会的、対人関係的な変化に過ぎず、そんなことで人間の本質が変化するわけではない、あるいは、小説を書くという時間のあり様そのものが変化するわけではない、と言うことも出来るし、それは絶対正しい。しかし、「その人の本質が変化するわけではない」ということとは切り離された別の次元で、何かが決定的に変化し、何かが動く。宿命というのは、おそらくそういうものなのだ。人は、すぐれた小説を書くから小説家になるのではなく、小説家になるという宿命によって小説家になる。それは他人に、あるいはもっと大きな何ものかの力に、ゆだねられている。理不尽に外側から訪れるとうとつな変化の暴力性は、人をこのような認識に導くだろう。(古谷利裕『人はある日とつぜん小説家になる』pp.17〜19.)

また『人はある日とつぜん小説家になる』に所収されている「とちゅうで」というテキストも配られて、これはすごくいいテキストなので全部引用したいけど、全部読みたい場合は買って読んで欲しいので、一部だけ引用します。



わたしは「わたし」という素材しか持っていない。作品に触れる時、その貧しさが露呈する。作品は、その貧しさのなかにしか現れない。(中略)


わたしの見る夢において、わたしがする経験の強さは、その夢そのもの以外の外的な要因によって保証されず、その夢の経験以外の場所に着地点をもたない。今朝方の夢にあの人が出てきたのは、昨日その人にあったからかもしれないし、夢のなかで凍えていたのは、部屋が寒かったからかも知れない。しかしそのようにして外側からの説明によって原因が分かったところで、その夢の質そのものは説明されない。部屋が寒かったから凍える夢を見たという言い方は、夢のなかで凍えていたその寒さの感触、その経験を少しも解明していない。昨日あの人に会ったから夢に出てきたという言い方は、夢のなかであの人に会うことの出来た喜びを、少しも説明しない。


だがここで重要なのは「わたし」ではなく、夢や作品からわたしを通して結像された「何か」であり、わたしが夢や作品を通過することで経験した「何か」の方である。そうだとしても「わたし」がついて回らざるを得ないのは、わたしが「わたし」という素材しか持たないからであり、夢や作品の経験という、夢や作品それ自体にしか根拠や着地点をもたないものが、わたしという貧しい限定を通して顕在化されないからだ。


わたしが作品を読むのではなく、作品を読むわたしは、作品を結像させ、作品を立体化させるいくつもの装置の一つでしかない。「生きられる」のは私ではなく作品であるが、作品はそれが誰にしろ「わたし」を通すことによってしか生きられない。わたしにおいても、わたしという限定された、限界をもつ装置によってしか、作品は立ち上がらない。「わたしにとってのこの作品」と言わざるを得ないのは、「わたし」が大切だからではなく、わたしが「わたし」という位置に限定されているという、わたしが必然的にもつ貧しさによってだ。(pp.153-155.)

このあたりが今日のトークのポイントですね。大変でしょ。こんな内容をあれやこれや語り合ったのですよ。ホワイトボードまで使って!







もう難しすぎてトークショーでやるのに相応しいか?と問われれば、NOかもしれないのですが、特筆すべきは今日は会場から活発に質問があったこと、そしていずれもが的確な質問であったこと。例えばこんな質問。



人がある日とつぜん小説家になるということは、物でも同じことが起こりうるのか? 例えばラスコーの壁画がある日とつぜん作品になった、その瞬間というのがやはりあったのか?

みんなとは言えませんが、会場のお客さんもちゃんと話についてきてるじゃありませんか!


いま家に帰ってきてぼーっとしながら今日のトークを振り変えると《作品生成の瞬間》についてあらゆる角度から話されたトークだったんだなーって実感しました。実感というのがミソです。頭では理解できなかったけど感触がちゃんと残ってるんです。



※ photo by montrez moi les photos







  トーク情報》



 古谷利裕 × 福永信



 日時:3月13日(土)20:00〜22:00


 場所:吉祥寺《百年》


 申込み: TEL 0422-27-6885



人はある日とつぜん小説家になる

人はある日とつぜん小説家になる


世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢

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終の住処

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