今日の出来事


(初出 2006年1月14日)





履歴書のストックを3部程。それは昨日書き終えてしまって、今朝は旅行で持ち帰ったチケットやパンフレットなんかをスクラップブックに貼り付けて、その作業も30分もかからず終えてしまって、今日来た2通の年賀状の返信をして、部屋をちょっと片付けると旅行後の散らかった状態も納まってしまい、今日一日のお仕事を終えてしまった。



親父が威勢良く、「今日は初詣に行くぞ!今年はまだ行ってないからな」なんて言っていたけれども、今日はひどい雨で風も強いのであり得ない。歯医者から帰ってきた親父は、パンをたくさん買ってきて、それを切って食べるのに忙しそうだった。



そんな訳で今日一日は読書をして過ごすことになったのだけど、何ものんびりということではなくて、アメリカから帰って来てもう3日も経っており、次のステップをやり繰りするためのアルバイトはまだ見つかってないけれども、そのステップはもう始まっている訳で、テーマ本の読解を着実にこなさねばならない。ヘーゲル精神現象学』を旅行前に4章まで読んで中断していたので引き続き5章から。この手の本の読解は、ひとまず目を通すというレベルで、日本語で書かれていて読めるけれども理解できないので、理解する作業はまだしない。かなり退屈で焦れったい時間である。アメリカ旅行で精神衛生がかなり向上して帰ってきたのだけど、また鬱塞した感じが甦ってきそうでぞくっとする。



アメリカでの生活を振り返ってみると、親戚のおばさん、と言ってもアメリカ人だから、おばさんと呼んでもしっくりこないのでリンダと名前で呼ぶことにするけど、そのリンダとほとんど行動を共にしていて、リンダは絶えず誰かと会っているか、電話で話しているか、メールを送っているかといった人で、僕の1ケ月分の会話を1日でこなしてしまうような人だから、僕もそれなりに頑張って、リンダの日本語がかなり上達したと感じられるほどに話し込んだ。そうやってリンダのペースに引き込まれていった訳だけど、一方、彼女は、英語がほとんど話せない僕が相手だと自分のペースを乱され重たいと感じていたのだろう。滞在していた前半はリンダのペースに合わせる感じで過ごしていたけれども、ある時、僕が暖炉の前で本を読みながら、ノートをちょこちょこと書いていた姿を見てからだと思うけど、自分のペースだけでやるのは疲れるから、僕のペースも取り入れようとしてくれたみたいで、後半の日々は途中でスターバックスに寄ってくれて、そこで各々が本を読んで過ごす時間が加えられた。それが僕にもすごくよく感じられ、こういうペースが理想かなと思った。



さて、話を現実に戻すけれども、それはやはり理想で、アメリカには重量的に軽い文庫本しか持って行っておらず、内容もソフトな本だった訳で、こうやって帰ってくるとそうもいかない。小難しい本も読む必要があるし、読書にさく絶対的時間もかなり必要になる。理想と現実。はて、何とかならないものだろうか。



そう言えば昨日、三宮に行って本を数冊買ってきたことを今思い出した。リンダから勧められた本と雑誌(新潮2月号)。本は後でちびちび読むとして、まず新潮に食い付いたのだった。懐かしい感覚だった。アメリカに滞在していたとき、一方では窮屈な感じもしていたことを思い出した。それはどういう事かと言うと、アメリカでは持っていった本を読むしかなく、浮気や寄り道が出来なかったことだ。例えば、アメリカの新聞は分厚くて、面白い記事とかありそうで興味を引いたけれども、言葉の壁があるからこれといった記事を見つけることができず、NFLやカレッジフットボールのスコアを確認したりする程度で、大塚のトレードだって写真があったから気付いたようなもので、読んだ記事と言えば、本当にそれぐらいだった。



昨日は、新潮をドトールスターバックスを梯子して読んだ。秋山駿と保坂和志の連載だけだったけど、それだけで満足だった。そもそも寄り道だし、少年ジャンプならまだしも、この手の文芸雑誌を隅から隅まで読むような人はいないだろうし。こっちに帰ってきてから、新聞ではまだ読み応えのある記事にお目に掛かっていないのは気掛かりだが、こうやって新聞や雑誌で寄り道することが健康的読書のための一因である。それを思い出せてひとまず安心した。その勢いで今回のテーマとは関係ない、要するに寄り道だが『2月号の一押し』、さぁ、いってみよう!



「人は真の批評に導かれて、はじめて自己を発見し、幾多の性格と、精神を知り、偏見を捨てて正しく進むことが出来る。そこに生の発展とも言うべきものがあると思うのである。」(『藤村文明論集』「批評」)※1

さて本題に戻るが、リンダがスターバックスで何を読んでいたかと言うとGregory MaguireメWICKEDモだった。僕は全然知らない本だったので、どういう本か聞いたところ、来年上演されるミュージカル(ブロードウェイ?)の原作で、『オズの魔法使い』の前説となる物語ということだった。



「『オズの魔法使い』知ってる?」


「知ってる」


「ストーリー知ってる?」


「あまりよく知らない」


「読んだ?」


「読んでない」


オズの魔法使いに4人の魔女が出てきて、そのうち2人はよい魔女で・・・」



そう言えば、また今思い出したけれども、僕が小説を読めるようになったのは、つい最近で、せいぜい2年前ぐらいの出来事なのだった。だから僕は、誰でも知っている、小さい頃読んだはずという類の本を平気で知らなかったりする。『オズの魔法使い』然り、『星の王子さま』然り、『レ・ミゼラブル』然り。大した問題ではないと言いたいところだが、リンダに勧められたこともあって、とりあえず『オズの魔法使い』を買ってきて読んだ。完璧にやられてしまった。僕のやられるパターンをだいたい感づいている人には、それ程大きな衝撃ではないと思うが、僕自身にとっては大変なものだった。




「どうもよくわからんな。おまえさんがどうして、このきれいな国から、カンザスとかいう、からからにかわいた灰色の土地に帰りたいのか。」「それはあなたに脳みそがないからよ。」ドロシーは言いました。「どんなに灰色で殺風景なところでも、わが家はわが家よ。わたしたちなまみの人間は、ほかの国がどんなにきれいでも、やっぱりわが家に住みたいと思うものなの。わが家ほどいいところはないのよ。」かかしはためいきをつきました。※2


どこを抜き出してもよいのだけど、この物語全体に渡って通底している健康さというか、例えば、主人公のドロシーというただの小さな女の子は、全くもってボケボケでタイプ的には「お笑い」なのだけど、純真な女の子として、この物語世界を成立させる強度を持ち得ている。ここで「強度」なんて言ってしまったことで、この作品に対する批評が失敗した感があるが、僕が目下最大のテーマとして取り組んでいるが、他でもないこの「強度=バランス」なのである。



さて、リンダがよく話す人で、本を読む人だと分かったと思うけど、もう一つDVDをよく観る人だということを付け加えておかねばならない。昼間は外に出て、スターバックスにも寄って帰ってくる訳だけど、夜は必ずDVDを1本観る、観せられる。どのようなものかと言うと、“ OPEN WATER ” “ PENGUIN ” といった類の、近所のレンタルショップやインターネットのレンタルショップで気軽に入手できる、いわゆる大衆映画なのだが、これはこれで僕にとっては痛いポイントで、毎日やられっぱなしだった。僕のようなインテリに言わせれば、大衆映画などくだらないと言い切ってしまいたいところだが、大衆映画しか観ないという人を舐めてはいけない。それはいわゆるインテリに対する確固とした批判精神において支えられているからだ。僕にはこういった点について議論する英語力もなく、またそのスタンスには敬意を示すので、毎晩DVDを一緒に観た。確かにストーリーが単純過ぎたり、“ stupid ” と鑑賞後みんなで言ってしまうような映画が2本に1本ぐらいあるのだけど、いいなと思える作品もあるし、ここが凄いなと思える作品もあった。小説で書いたらどうか分からないけど、少なくとも全ての作品が2時間は人を引きつける力を持っていた。



さて、今日のまとめは簡単である。健康が一番ということである。




※1 秋山駿「文学の葉脈(二十二)島崎藤村『藤村随筆集』続続」新潮2006.2月号P.325より引用。

※2 フランク・ボーム作『オズの魔法使い』幾島幸子訳 岩波少年文庫pp.42-43より引用。








季節の記憶 (中公文庫)

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きょうのできごと (河出文庫)

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残光

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