受講生の声(その2)




(8月25日)


 『1968(上)』読了。

(8月23日)漱石の限界をそのままトレースしてたんじゃ、やっぱりダメだと思うよ。


一日読書。『1968』を読み続ける。ようやく「第10章東大闘争(上)」にさしかかる。上巻はなんとか読み切れそう。できれば下巻も一気に読みたいが他のプロジェクトも並行して進んでいるので上巻を読み切ったところで『1968』勉強会は一旦休止する。



『1968(上)』を読んでいて感じるのは、一言で言えば夏目漱石坊っちゃん』を読んだときと同様の後味の悪さだ。


セクトの政治活動や内ゲバというのはあまりにも稚拙なので、今を生きる我々は黙殺していいだろう(ゴレンジャーごっこかよ。オマエらアホか)。問題視するとすれば、慶大闘争以後の一連の学園闘争について。例えば日大闘争の発端となった当時の日大会頭のワンマン体制や東大闘争の発端となった東大医学部の封建的な体質はひどいと思う(=赤シャツ)。でも、それを受けて学生側がとった対立色を鮮明にして徹底闘争するという選択もまた稚拙と言うしかない(=坊っちゃん)。


坊っちゃん』を勧善懲悪のテーマのもと、自由闊達、直情径業な青年「坊っちゃん」が繰り広げる痛快劇として楽しく読むべきだろうか? そのように読んでも構わないけれども、しかしそれはあまりにも稚拙な読みというものだろう。そうではなく、「おいおい、これだったらこの中学はなんにも変わらないじゃないか」と疑問を抱き、「どうすればこの中学を立て直すことができるだろうか」と考えて読むべきだろう。


『1968(上)』は、およそ前者のレベルで回収できてしまうのでつまらない。「派手にやってくれたけど、これじゃ、なんにも変わんないよ」と。もしみんなとは言わなくても、せめて山本義隆だけでも「どうすれば大学を立て直すことができるだろうか」と本気で考えていれば、後続の世代の我々にとっても学べる点があったのではないか。


「どうすれば大学を立て直すことができるだろうか」。例えば当時の日大ならば、極度に独裁色の強い古田会頭を追放すること、東大ならば、豊川医学部長、上田病院長を追放することが考えられるだろう。ただこういったクーデーターというのは一時的な特効薬になったとしても持続的な体質改善にはつながらない。恨みや憎悪といった悪の連鎖を助長することになるから。


そこで考えられるのが、『坊っちゃん』で言えば赤シャツに該当する古田や豊川や上田といったダメな人たちを更生させる手立てを講ずるということ。おそらく当時の大学を立て直そうと思ったらこれしかない。ただ、これは物凄く大変。先生が不良少年を更生させるのも大変なのに、生徒が不良先生を更生させるとなるとこれはもっともっと厄介で、1,2年働き掛けたぐらいではすまない。10〜20年ぐらいかけないと直らないだろう。そんなことしているうちに学生は卒業を迎えてしまう。そこで学生が葛藤する、、、


こういう方向で事態が推移していたらもう少し積極的に読めるのだが、やはりなんというか稚拙というか、「時代が悪かったんだね。かわいそうに。」という程度の感想しか持てない。



[追記]

いま「第10章 東大闘争(上)』にさしかかったところなので、この感想はちょっとフライングしています。「東大闘争」や『1968(下)』を読んで感想が変わるかもしれない。感想が変わったら改めて書きます。





坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)


1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

(8月22日)


■ 《内田かずひろ枡野浩一トーク》。フロアの仕事がダンボール15箱ぐらいあったので最初と最後のちょっとだけ。内田さんは漫画家で枡野さんは歌人で、なにも内田さんは漫画ばっかり書いて、枡野さんは短歌ばっかり歌ってる訳じゃないけれど、別に漫画じゃなくても短歌じゃなくても、小説でも演劇でも数学でも100m競争でもなんでいいのだけど、「ぼくはこれだ」「わたしはこれだ」という表現のしかたを身に付けるということがいかにすばらしいことか!を伝えてくださった。


■ 《内田かずひろ枡野浩一フェア》は7F東側エレベーター前フェア台(裏面)でまだやってます。内田&枡野合作『選書リスト』も配布はじめました。ぜひ!


■ あと枡野浩一さんが演劇にでます。もう一度言います。演劇にでます。もう一度言います。もういいか





ロダンのココロ 春 (朝日文庫 (う21-1))

ロダンのココロ 春 (朝日文庫 (う21-1))


ロダンのココロ 夏 (朝日文庫)

ロダンのココロ 夏 (朝日文庫)


僕は運動おんち (集英社文庫)

僕は運動おんち (集英社文庫)


淋しいのはお前だけじゃな

淋しいのはお前だけじゃな

(8月21日)


『1968(上)』。ようやく[第一部(第1〜4章)]を読み終える。まだまだ先は長い。この一連の読書で永井荷風を発見したのは大きな収穫であったが、肝心の『1968』については今のところ収穫は全くない。「1968年」というのは僕(1975年生)にしてみれば、はっきり言ってどうでもいい。僕はあんな無責任なことはしないから。にも拘わらず、なぜ知っておこうと思うのかと言えば、「この出来事に深く関わった人のなかにも、優秀な人、この人は学んでおいた方がいいという人が一人や二人はいるんじゃないか」と思うからだ。まず[第一部]には該当する人物はいなかった。これから読む[第二部]は「第5章 慶大闘争」から始まる。小熊英二さんは「1968年の若者たちの叛乱」の発端を「慶大闘争」とみている。ここからが本筋ということだろう。そして山本義隆なる人物も出てくるだろう。ただ現時点での僕は、山本義隆さんについても否定的である。




1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景


1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

(8月20日)1968⇒ドリーマーズ


■ 次のフェアの看板娘がきょう入荷した。



(8月19日)夏の朝はなかなか捕まえられんなー。


■ 起きたら10時だった。寝たのは4時だった。


■ 朝カフェをすっぽかす。


■ 夜。福永信さんオススメの《少年王者館》を初観劇。『夢+夜』@下北沢ザ・スズナリ。先日みた岸野雄一さんの《ヒゲの未亡人》同様、奇蹟的に完成したスタイル。誰が何をいつどこでなぜどうやって考えてこんなものができたのか? 僕の想像の域をはるかに超えている。これも演劇!これぞ演劇!!うんちく無用。ご覧あれ!!! チケットはこちら



(8月18日)1968⇔1Q84


■ 電車で『1968』。行きは立ちながら。座っている人の上にうっかり落としでもしたら大変だ。本は凶器にもなる。


■ 休憩時に『1968』。読まずに寝る。本は枕にもなる。


■ 電車で『1968』。帰りは座りながら。ちょうど隣りのおじさんが『1Q84』を読んでいた。《フェア》が現実を呑み込んだな。してやったりだ。





1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

(8月17日)蜷川幸雄ふうとタカラヅカふうでやってみて by 神里雄大


■ 次回フェア選書リストを編集。必要な情報は全て打ち込んだ。あとは並び替え、グルーピング作業だ。


■ 旅のお供に『1968』。やはり重い。電車のなかで読書しながら筋トレ!


■ そして観劇@アトリエ春風舎。


青年団若手自主企画『昏睡』。青年団一筋のベテラン俳優 山内健司さんの大バクチ公演!山内さんが同世代だけれども全然分からない戯曲(永山智行)と年が20歳ほども離れた若い世代の、その中でも何を考えているか分からない演出家(神里雄大)を起用したという。そんで、わたくしも個人的にとんでもない体験をしました。感想はこちら。


  青年団若手自主企画 vol.42『昏睡』




 《感想文》:観劇に大失敗???


(8月16日)あしたはデイリースポーツを買いましょう!


■ ただいま作業中。


■ 告知 もうすぐトーク
 申込みはジュンク堂書店新宿店 TEL03-5363-1300


(8月15日)けっこう捗ったな。


■ 次のフェアの準備。ひたすら発注書を書く。スーパーマップルとか。


■ 読書『ストリートの思想』2章まで。





ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)


(8月14日)


■ 電車に乗っている人が少ない。新刊の配本がない。自分の生活はまったく変わらないからあくまでも推測だが、どうやらお盆らしい。


■ 『1968』は読みやすいのだがいかんせん重過ぎる。電車では読めん。しかたなく、昨日から毛利嘉孝『ストリートの思想』(NHK出版)を電車では読んでいる。いい本だとは思う。ただ僕も小川てつオさんと1年ほど一緒に活動したけど、小川さんにはついていけなかった。小川てつオさんを絶対に否定しないけれども「みんな小川さんにつづけ」とも言えない。この問題は僕のなかでまだ解決されていない。


■ 次のフェアの準備が着々と進んでいる。この土日が勝負。





ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)

(8月13日)まだ仕事溜まってるけど、もうひといきだな。


■ 今日一番の収穫は、建築系ラジオ アップリンク公開収録「東京論 ー 新しい地形としての東京」


  《発表概要》


1.ビルの上から東京を眺め新しい地形を発見する(国士舘大学・南研究室)。


2.東京をもぐって新しい地形(地下街)を発見する(日本大学・山中研究室)。


3.東京をママチャリでこいで、オノマトペを用いたユニークな記譜法で新たな地形を再発見する(昭和女子大学・杉浦研究室)。


4.東京をさまざまなタイプの地図を重ねながら新たな地形認識を誘発する。また測量ツールとしてGPSを利用し新たな地形を発見する(石川初)。

東京論というのはこれまでにそれこそ腐るほどあるけれども、今日の発表がとりわけ新鮮だったという訳ではないけれども、得られるものが多かった。


今日発表した4者に共通していたのが《東京の不可視性》を肯定的に受けとめていること。東京の全体を捉えようとするのではなく、見えない、気がつかない《差異(ズレ)》を発見し、それらを1つ1つ摘んでいこうとしている。そして《身体感覚》を取り戻そうとしている。


これは背景としてオリンピック招致の活動や大規模再開発に対する嫌悪があると思われる。東京で何をするかと言えば、未だに数的優位を活かしたメガスケールの発想しかないのか?


また、これは建築家の藤村龍至氏が述べていること(『思想地図vol.3』)だが、「IKEA」ショップに代表されるように「売り上げを伸ばすことだけを考えてつくられる商業空間」「人々の消費の欲望すらPOSシステムによって管理コントロールしてつくられる商業空間」。これが郊外の大型ショッピングセンター等の商業施設に限らず、すでに都心部へ、都市空間に広く浸透してきている。こういった《異変》を身体レベルで感知しているのではないか。



■ 収録後、建築系ラジオのコアメンバーにご挨拶。


南泰裕さんとはもう10年ぶり。覚えていてくださった。研究会に呼んでくださったり、家が近かったのでコンペを手伝いにいって、その場で即席勉強会をやってくださったり。けっこう影響受けてます。はい。僕が書いた文章にも名前を出させてもらったことがあります。この文章です(汗)。


五十嵐太郎さんと松田達さんも久しぶり。書店勤めを始めてから1度お会いしたのだけど、それからずいぶん時間が経ってしまった。松田さんとは今後について前向きな話ができた。藤村君の本(『1995年以後』)によって、建築外にも若手建築家に注目する人が出てきた。建築は人材が豊富でポテンシャルが高い。建築家と他ジャンルのアーティストを結ぶ役目を僕も果たせるだろう。何かができそう。何かが生まれそう。今後が楽しみだ。


山田幸司さんは初めて。気さくでアグレッシブな方だった。








■ 先程開催された「《写真展》LAND SITE MOMENT ELEMENT」の一環として行われた《DIVISION-1 ギャラリートーク》の前半部、私(阪根)の作品解説のみですが公開します。まずは坂本政十賜さんのパートから。今日の建築系ラジオ(東京論)と同一テーマとも言えます。「写真家の眼を通して見た東京」から新たな発見があるかもしれません。



《写真展》LAND SITE MOMENT ELEMENT・坂本政十賜





1995年以後~次世代建築家の語る建築

1995年以後~次世代建築家の語る建築

(8月12日)関学のユニフォーム早稲田みたいやな。ブルーの方がいいな。


古谷利裕『お告げと報告、楽観と諦観 ー 磯崎憲一郎論』(新潮)を読了。ガルシア=マルケスとかカフカとかムージルとか持ってくると思ってたけどそうじゃなかった。あくまでも磯崎作品そのものを論じるというフォーマリスティックな物言いに徹したのは正解だと思う。なぜ正解かって? たまには自分で考えろ!


■そういえば、 最近電車にいつもイソケンがいる。


 ・ ブッサン次長!


 ・「サラリーマン」と「作家」の時間術!!


   島耕作かよ!!!



■ 『文藝春秋』を買った。生まれて初めてじゃないけど、たぶん3度目ぐらい。


■ イソケンのインタビューはタイトルはさておき内容はすごくよかった。


   アメリカ時代に純文学を大量に読み直したそうですが、きっかけは。


磯崎 子供が生まれたことです。若いころの自意識が、子供を持ってスッと抜けてしまった。自分が子供を溺愛するような父親になるなんて想像もしなかったのに、もし子供が病気になったら、臓器でも何でも移植するし、自分の一生が終わっても悔いはないとすら思いました。


血のつながりとDNAとか安易に言われますが、ほんとうは子供ってつくづく他者なんですよ。おなかが空けば泣くし、親のコントロールなんか全然効かない。なにより、自分がこの世を去った後も、子供は存在し続ける。


そんな他者が、自分よりも大事な存在になってしまった。子供にとっていちばん大事な存在は、また子供にとっての他者になる。自分よりも大事な存在が自分の肉体の外にいる。時間的にも空間的にも拡散していく感じをリアルに突きつけられました。


これはもう自己実現ではなく、外界に働きかけ、奉仕して生きなきゃいけないという思いが強まって、文学に戻ってきたんです。

■ いまから2時ぐらいまでフリー。すなわち読書。


■ 明日は作業をして、夕方建築系トークを聞きに行く予定。建築久しぶりだな。ついていけるだろうか。。。




終の住処

終の住処


新潮2009年9月号


文藝春秋9月特別号

(8月11日)地震けっこう揺れたな。天候不順も気になるな。


■ 極秘プロジェクトの打合わせ。充実した打ち合わせができた。極秘といっても時期的にもうオープンにしてもいいのだけど、きょうの打合わせの結果をクリアにすれば、あとはもう突っ走るだけというところまできたので、発表はそれからにします。ご期待ください!!!!!


■ きょうは『1968』をまったく読んでません。いろんなことが同時に動いているから、その時々でバランスをとりながらやっていけばよい。ゆっくり、ゆっくり。