受講生の声(その1)




※ 8月11日以降はこちら




(8月10日)おい、かばんに『1968』入ってないぞ!


■ 今日は名物店員の送別会。書道に長けた人で物真似がうまい。なんでもマネしてしてしまう。マネされている当人以上にうまい。不思議な魅力をもった人だった。僕がこの店で働くようになって3年6ヵ月。僕が入ったときからいる人はもう数えるほどしかいない。


■ 今日もいろんな方にご来店頂く。コーラ姫と久しぶりにお会いした。福永信さんとまたお会いした。


■ 読書はぼちぼち。


■ そうそう。きのうご来店された須川善行さん(元ユリイカ編集長)と少しだけお話することができた。コミさんの詩集を手がけた方です。で、当然コミさんの話になったのですが、いまさらですが、


須川:「河出文庫の装画は小田扉だよ。」


おれ:「ええっ!そうだったんですかぁああ!!!」(おいおい)



ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)


自動巻時計の一日 (河出文庫)

自動巻時計の一日 (河出文庫)


香具師の旅 (河出文庫)

香具師の旅 (河出文庫)


団地ともお (13) (ビッグコミックス)

団地ともお (13) (ビッグコミックス)

(8月9日)きょうはオモロイ人がたくさんいたなー。


■ とある人に「霊感はつよいですか」と訊かれる。「つよくないです」と答える。



佐々木敦『時間と言葉 ー 磯崎憲一郎と「終の住処」』(文学界)を読む。キレ味がよい。佐々木さんが別の論考(即興論)で追いつめながらも攻めあぐねていた敵をこの論文で仕留めたという感じ。なにもこの論考だけを読んだらいいというのではない。磯崎憲一郎『終の住処』を読んで、佐々木敦『時間と言葉 ー 磯崎憲一郎と「終の住処」』を読むと、佐々木敦『「即興」の解体』を読みたくなるし、デレク・ベイリーインプロヴィゼーション』も読みたくなるし、大友良英を聴きたくなる。



古谷利裕『お告げと報告、楽観と諦観 ー 磯崎憲一郎論』(新潮)の「(0)小説家になる」だけを読んで思わずガッツポーズ!ここまで無駄な文章が一文もない。攻めている。続きは明日。



■ とある批評誌の編集ミーティングに特別に参加させて頂く。いつもは完成した本を売っているだけなので、こうやって本をつくる現場に飛び込むと完全に呑まれてしまう。パワーの桁が違う。メンバー個々のキャラの強さに終始圧倒されKOされる。最近ちょっとへばり気味だったのだけど、これじゃいかんと思う。大きな刺激を受け、初心にかえる。みんなの足を引っ張らないよう精一杯がんばろう。



■ 大好きな詩の一節を思い出す。


  タイトルが決まった。

  タイトルというのは時々、作品の説明なんかではなく、僕に速度と角度をくれる。


島袋道浩『鹿をさがして』



終の住処

終の住処


文学界2009年9月号


新潮2009年9月号


ユリイカ


インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ

インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ


MUSICS

MUSICS

(8月8日)読書より野球だろ!


きょうは「ニッポンの思想」関連の読書はあまり進まず。


昼休みに「文学界9月号」と「新潮9月号」を購入。芥川賞を獲ったイソケン特集。昼休みは読まずに爆睡。帰りの電車で読み始める。「文学界」の《保坂和志×磯崎憲一郎対談》を読んで勇気が湧いてくる。


先日(7月18日)の《佐々木敦×磯崎憲一郎トークセッション》でぼくが一番好きな話は、磯崎さんが『世紀の発見』を昨年の夏の朝、毎日4時頃に起きて書いていたという逸話。たしかに夏の朝は気持ちがいい。ぼくもマネしたい! 毎日4時に寝る生活なんてもうやめよう!と言うわけでもう寝る。


明朝、《佐々木敦さんの磯崎憲一郎論》「文学界」と《古谷利裕さんの磯崎憲一郎論》「新潮」を読む予定。





終の住処

終の住処


世紀の発見

世紀の発見


文学界2009年9月号


新潮2009年9月号

(8月7日)こんなデカイの喰えるか!


ついに小熊英二『1968』を購入。ま、ひとまず上巻のみ。それにしてもデカイ!厚い!重い!


丸山真男『日本の思想』と比べてみよう。


 
  勝負にならない。


 
  厚さなんと5.5cm!


 
  重さ計測不能(1kgは軽く超えている)


 
  ちなみに『日本の思想』の重みは145g。軽い。


『1968(上)』を100ページほど読む。丁寧な論説。個人的な憤りは抑えて、ともかく読んでみる。





1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景

(8月6日)保坂先生にも永井荷風勧められたよね。


今回の読書のテーマと関連しそうな本を数冊物色。ふむふむ。その後、永井荷風のリサーチへと向かう。加藤周一を読んで永井荷風をピンポイントで拾ったのは僕の勘がいいからと言いたいところだけど、残念ながらそうではない。昨年保坂和志先生のフェアをやった時、保坂先生からのメールに「荷風と一葉はわたしの好きな二大日本人作家です」というコメントが添えられていたのを憶えていたからだ。


保坂先生から直接勧められたのが「五月闇」という『新橋夜話』に所収されている短編作品で、おそらく保坂先生は荷風の立場や時代背景は抜きにして、この作品そのものがよく書けているので評価しているのだと思う。この作品は最後の最後でぞっとするのだけど、それは当時の社会情勢から荷風が書かざるを得なかった、書かねばならなかったからだ。もし、その手前で止めておきさえすれば、この作品は傑作だ。作家がでっち上げた物語ではなく、あるのはただ流れだけである。


荷風の作品を読むにあたっては、作品そのものを味わいたいが、今回のテーマ「ニッポンの思想」においては、荷風の立場、時代背景を押さえておく。「五月闇」が所収されている文庫の解説に適切な文章があったので引いておく。



森鴎外上田敏がみとめた荷風のそのようなユニークさとは何か。おそらくそれは、良家の子弟で、親の期待にそむいて文学や芸術の道に深入りをし、自由な生きかたをしようとしていること、しかもその文学や芸術上の立場が、当代文壇(自然主義を主流とする)の流行から自由で個性的であること(反自然主義)、それを支えるだけの感覚と趣味と教養とをそなえていることなどが考えられる。鴎外が家の重みをうけとめ、軍医として拘束されざるを得なかったのに対し、荷風は家に対してより自由に生きようという反逆的姿勢を鮮明にしていた。敏の学殖は比類なく深かったが、感覚の鋭さと表現力のみずみずしさにおいて、荷風に及びがたい天賦のものを、敏感に感じとっていたように察せられる。狭くても純一で妥協のない芸術家の道をひたぶるに進もうとする意欲的生きかたが、鴎外や敏に訴えかけたということではなかったか。


しかし父久一郎の眼からすれば、依然、前途は不安であり、期待にそむく欧米留学の成行きというほかはなかった。『監獄署の裏』(1909.3「早稲田文学」)という作品には、帰国した荷風が家に対してどのような心情で暮らしていたかが、文学的に加工された形で扱われている。父が「如何にして男子一個の名誉を保ち、国民の義務を全うすべきか」について、主人公に問いかけたのに対して、彼は「世の中に何にもする事はない。狂人か不具者と思って、世間らしい望みを嘱してくれぬように」と答えている。そして監獄署の裏の邸での「毎日ぼんやり庭を眺めて日を送ってい」る一種の幽閉状態の生活がはじめられる。


自分は汚名を世に謳われた不義の娘と腕を組みたい。嫌われた揚句に無理心中して、生残った男と酒が飲みたい。(『曇天』1909.3「帝国文学」)


この衰残、落伍意識は、誇張された自己劇化ということもできようが、このような反俗・反功利の表出自体、帰国後の日本社会、家に対する荷風の自己主張以外の何ものでもない。端的にいえば、父から今後の生き方についてただされたとき、何もすることがないと答え、このような衰残、落伍意識をふりかざしてゆく「私」や「自分」を文学的主人公として設定できること、その積極性のなかに、新帰朝者としての荷風の意味があった。


しかもそういう荷風をむかえた故国では、日露戦争後の社会状況に対して、上からの引き締めや言論干渉が顕著になりつつあった。1908(明治41)年10月にだされた戊申詔書の「上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去リ実ニ就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ」という、国民思想の方向づけがそれを象徴的に示していた。荷風の帰国をまちうけていたものは、いわば、このような干渉であり禁圧であった。


外遊体験が深ければ深いほど、帰国後の社会的差異からうける衝撃は大きいにちがいない。個人的特殊的な体験にこだわりながら、彼はまわりとの間に生じた疎隔・違和に就いて語り、訴えかけはじめる。あるいは声高に嫌悪や恐怖をいい立てる。それが文明批判となり、社会の病症をとらえ写しだす作品として結晶する。荷風のケースは、日露戦争後という時期の点において、なによりもその「個性」において、まるでそのような役回りをあたえられたかのごとく、挑戦的で鮮やかな輪郭を描きだす。


私は唯だ「形」を愛する美術家として生きたいのだ。私の眼には善も悪もない。私は世のあらゆる動くもの、匂うもの、色あるもの、響くものに対して、無限の感動を覚え、無限の快楽を以てそれらを歌っていたいのだ。


これは『歓楽』(1909.7「新小説」)という作中人物の述懐であるが、荷風自身の内なる声の表出だ。「善も悪もない」美的な官能、快楽の追求に身を焦そうというのである。ここに世紀末的な思潮の洗礼をうけた芸術家の姿勢がある。しかしこのような美的快楽の追求をうけいれる条件が、戊申詔書を発する明治の社会にあろうとは考えられない。屈折は余儀なくされることであろう。だが、どこまでそれを追求し、表現として形をあたえることが可能であったか。


竹盛天雄「永井荷風『すみだ川・新橋夜話』岩波文庫・解説」pp.326-329.



すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)

すみだ川・新橋夜話 他一篇 (岩波文庫)

(8月5日)斜め読み、慣れたか?


昨日に続き斜め読み。久野収鶴見俊輔現代日本の思想』はあまり期待していなかったのだけど、すごくよい。白樺派(戦前)から始まり日本の実存主義(戦後)までの流れが書かれている。久野収鶴見俊輔にとっての現代が「戦後」ではなく「白樺派」からということなのだろうけど、「白樺派」から始めているのが絶妙だと思う。確かに丸山真男を読むと本居宣長荻生徂徠等が頻繁に引用されているので、そのあたりも押さえたいけど、僕にとってはちょっとハードルが高い。ひとまず久野収鶴見俊輔現代日本の思想』(岩波新書を軸に今後の読書を展開する。


加藤周一『日本人とは何か』で興味深いのは、加藤が永井荷風をものすごく意識している点だ。「日本の思想」を考えていく上で、永井荷風はキーマンっぽいのでマークする。





現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)

現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)


日本人とは何か (講談社学術文庫)

日本人とは何か (講談社学術文庫)

(8月4日)こんな読み方、ふだんしないよね?


世間一般の感覚で言えば「丸山真男なんて古い!」という感じなのだろうか、どうだろうか。「丸山真男って誰?」という感じか。確かに読んでいても新鮮な感じはない。紋切型と言えばそれまでだし(というか氏から紋切型が創出されたのだろう)。ただ標題の『日本の思想』というテーマは今更ながら気になったので、今日は同一テーマの本を数冊斜め読みした。いずれも戦前についての記述が多く割かれており興味深い。とりあえず今日はこの程度。それよりも今日は『ライン京急(山縣太一+大谷能生) 自主企画 Vol.1』だ。岸野雄一さんにやられた。ブラボー!感想はこちら





日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)


現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)

現代日本の思想―その五つの渦 (岩波新書 青版 257)


日本人とは何か (講談社学術文庫)

日本人とは何か (講談社学術文庫)

(8月3日)おいおい、ちょっとオーバーペースとちゃうか!?


丸山真男『日本の思想』の第1章「日本の思想」にとりあえずざっと目を通す。「國體」にまつわる記述は、戦前の天皇制を知らない者からすれば、はなはだ異常なお話だ。


そうそう、「村上春樹『1Q84』をどう読むか」を読んで意外だったのが、主人公のひとり青豆の人気がみな一様に高かったこと。(以下『1Q84』のネタバレありますよ。) ハゲ好きとかオッパイが小さくてコンプレックスを抱いているのがかわいくてよいというのはオマケとして、悪を退治する毅然としたヒロインを見事に演じる他方で、セックスマシーンという一面も抱えている。これは村上さんの悪い癖というか人物を理想化し過ぎる(こんなやつおらんやろー)嫌いがあるのだけど、それを差し引いても説得力があったということだろう。つまり、勧善懲悪の主人公で言えば「坊っちゃん」を思い浮かべるけど、彼は女癖は悪くないから、青豆を漱石的に造形しようと思えば「坊っちゃんと赤シャツを足して何かを引く」というちょっとややこしいことになってしまう。あるいは女癖が悪いと言えば、太宰だ!啄木だ!といったあたりを出してきてもいいけれども、彼らはぐだぐだになっちゃうから、青豆とはやっぱり違う。という感じで青豆は新鮮でビールのつまみにピッタリ!みんな大好き!ということなのだろうか?いや、それは枝豆か。グリーンピースはけっこう嫌いな人も多いなー。環境保護団体のグリーンピースも微妙だしね。なんのこっちゃ!?


さてさて。「村上春樹1Q84』をどう読むか」でも何人もの人が指摘しているように、青豆がやっていること、「女性に暴力を加える卑劣な男たちをやる」というミッションを「あなたは正しいことをした」という断定的な声のもと遂行するというのは、要するに「ポア」であり、彼女の精神構造は地下鉄サリン事件の実行犯に極めて近い(これを一緒とまで言ってしまうのは問題があり、佐々木中さんのような一元的な極端な読みに陥ってしまう危険性がある)。組織団体が形成されていく過程を追えば、「さきがけ」の方がオウムっぽいけれども、「柳屋敷」こそオウムと言えるだろう。だから「さきがけ vs. 柳屋敷」という図式で読むべきではないだろう。


そこで問題になってくるのが「リトルピープル」だ。僕は「TVピープル」という村上さんの短編を読んだことがないのだけど、読んだ人のコメントからおそらく「リトルピープル」はこれを受けているとみてよいだろう。つまり「リトルピープル=TVピープル=大衆」ということ。そしてさらに問題なのは「さきがけ」という世間から著しく隔離したコミューンの中枢部から、このリトルピープルが湧き出てくるという空間図式。「大衆社会(内)/さきがけ(外)」と明確に線引きしているはずが、「さきがけ(外)」から「大衆(内)」がひょこっり顔を出す。外と内が繋がっている。外が内に反転する。要するに「クラインの壷」?やっかいだな。


空間図式の解明はひとまず置いといて、この物語は「リトルピープル(大衆) vs. さきがけ&柳屋敷」と読み取ったほうが適切に思う。だた、さらに厄介なのが「リトルピープル(大衆)=我々(非 さきがけ&柳屋敷)」とも違うということだ。


そして、さらにさらに厄介なのが五十嵐太郎さんが指摘しているように「さきがけ」の教祖が、新宗教にみられる教祖っぽくないという点。権力者という相貌がほとんど感じられず、達観しているというか、リトルピープルの声をただ伝えているだけだと自認して行動している点。そして安藤礼二さんが指摘しているように『1Q84』で描かれているシステムが天皇制そのものだという点。


1Q84』→「村上春樹1Q84』をどう読むか」→『日本の思想』、繋がった! 丸山真男が言っている「國體」(天皇制)の異様さが『1Q84』を通じてより説得をもって実感できるというものだ。最後に「日本の思想」の本文からではなく、学生の時にやった勉強会での建築家・難波和彦先生の発言を引用しておく。もう10年程前のことだけど、この発言はいまでもすごくよく覚えている。


難波: ドイツには大都市がない。逆に言うと非常に小さな街がたくさんある。それがコミュニティに適したスケールになっていて、イギリス人やフランス人に言わせると、コミュニティ幻想がいつまでも残る原因になり、そこからファシズムも生まれる。


丸山真男という政治学者が書いていますが、日本とドイツの違いは、個人としての自立性にある。戦争に負けた後に戦犯の裁判があったでしょ。その時、日本の軍の首脳部たちは、言い訳がましく「私はそんなつもりではなかった。天皇から言われたままにやっただけ」とかセコイ言い訳をした。ところがゲッペルスは「何が悪い、ガハハ」って笑ったらしい。つまり個人の意見が明確にあって、殺すなら殺せという感じで自分の信念を変えなかった。ところが日本の戦犯は、なんでこんな奴の言うこと聞かなきゃいけなかったんだろうというぐらいに卑屈な態度だった。


天皇制とも関係がある難しい問題ですが、日本人には自立した個人という近代的な概念がない。フランスはパリに一局集中しているから、日本と似ている面もあるけど、地方にはちゃんとした村がある。日本の村はすべて都市化されていて、都市は村の集合で、さっき言った月島のようなコミュニティが残っている。



日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)


村上春樹『1Q84』をどう読むか

村上春樹『1Q84』をどう読むか


1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1


1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

(8月2日)


「ニッポンの思想」をテーマにしてまとまった文章を書きたいとまでは思わない。知らないよりは知っていた方がいいし、読みたいと思いつつ読んでいない本がけっこうあるから、この機会に読めるだけ読んでしまうという気持ち。ま、『1968(上下)』は読みたいな。あとは気分次第。


まずは、オーソドックスに丸山真男『日本の思想』からスタート!!




日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)