門林岳史×田中純×港千尋トークセッション
人文科学誌『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3刊行記念トーク
■ タイトル:〈イメージ〉の現在
視ることのアルケオロジー
■ 日時:2010年7月11日(日)18:30〜20:40
■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)
■ 急遽の開催であったにも拘わらず、40名を超えるお客様にご来場頂きました!
■ ありがとうございました。
《感想文:門林岳史氏ジュンク新宿初登壇!!!》
■ 私としては、とにかく門林岳史さんに登壇して頂きたかったのです。門林さんは74年生まれで私と同世代ということもありますが、ま、ちょっとした有名人でもありまして、高校の時から全国模試なんかでいつも上の方にいるので多くの人に認知されていたとか、みんなが10点ぐらいしかとれない数学のテストで90点ぐらいとって偏差値100を超えたとか、ま、高校は高橋源一郎さんと同じところでしたが、大学でも学内では有名だったようで、カドバ の愛称(ま、スタバみたいなもんですな)で親しまれ、ドイツ語を半年でマスターしたり、G.Th.フェヒナーの精神物理学についての論文を書いて、思想雑誌の『現代思想』に発表したりとか、おかしなことも色々やっている方なのですが、ま、一言で言えば天才なのですが、アカデミーの世界だけを活動の場とされるとこちらとしては面白くないわけです。一般のお客さんの前でもガンガン発言して欲しい! そういった意味でも今日はよかったです。
ただ残念だったのが相手が田中純先生と港千尋先生だったので、一回り若い門林さんはちょっと抑え気味だったかなと。もっとはちゃめちゃにやってもらってもよかったのですが、、、 今度は石岡良治さんや平倉圭さんといった同世代との対戦カードを組みたいと思います。ご期待ください!!
《会場の様子》
会場の様子:盛況でした。またみなさん真剣に聴き入ってました。
門林岳史先生:冷静な試合運びが印象的でした。今度は乱打戦を希望します!
田中純先生:いつもは事前にシナリオを練って完璧な発表をするというイメージがあるのですが、今日は瞬間、瞬間で想起して答えていたように思います。その語りこそが、田中先生にとっての「ヴァナキュラー」に対する答えだったのかもしれません。
港千尋先生:港先生の話はいつも興味深い。私が行ったことのないまったく知らない場所やそこの人びとの話が、次から次から出てくるので、こちらは休む暇がありません。
《トークを振り返って》
■ さて。今回のトークは、『SITE ZERO no.3 ヴァナキュラー・イメージの人類学』の刊行を記念して行われ、門林岳史さんの適切な進行もあり、本の内容に準拠しつつ、これから本を読もうという人にとっては適切なガイドに、すでに読んだという人にとってはさらなる思考のきっかけとなる、非常にクリアな内容でした。
■ 今日の話では、ジェフェリー・バッチェンという写真史家の仕事が鍵になるのですが、ジェフェリー・バッチェンについては一昨年『photographers' gallery press no.7』で特集が組まれ、日本に紹介されました(この特集の仕事をした主要メンバーである甲斐義明さんと小原真史さんも会場に駆け付けてくださいました)。
■ 『SITE ZERO no.3 ヴァナキュラー・イメージの人類学』と『photographers' gallery press no.7』、まずこの2冊をおさえてください。
photographers'gallery press no.7
- 作者: photographers'gallery
- 出版社/メーカー: Ricochet
- 発売日: 2008/04/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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■ そして、今日お越し頂いた田中純先生の『イメージの自然史』と港千尋先生の『洞窟へ』も合わせてご覧下さい。
- 作者: 田中純
- 出版社/メーカー: 羽鳥書店
- 発売日: 2010/06/21
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- 作者: 港千尋
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■ これほど刺激的なテキストが揃えば、私でも40〜50枚の原稿は書けますよ。ホント。
■ 最後に私自身の興味も2点ほど補足しておきます。
例えばロザリンド・クラウスは「フィールド」という概念を巧みに扱います。彫刻の基壇もフィールド、美術館の展示場もフィールド、そして美術館の外、大地もフィールドというように。「クラウスのフィールド」は美術館という制度を批判するための戦略として使われていますが、「ジェフェリー・バッチェンのヴァナキュラー」もいわゆる大文字、インターナショナルなものを批判する戦略として使われているようにおもいます。そこで、この両者を比較したらどうでしょうか? 結局同じことなのか、全然違うのか?
ヴァナキュラーと他の言葉との関わりはどのようなものでしょうか。アノニマス、サイトスペシフィック、リージョナリズム(クリティカル・リージョナリズム)、そして特にプラトンのコーラとの関わりはどうでしょうか? 今日もヴァナキュラーをめぐって「起源」が問題になったのですが、プラトンの「コーラ」には起源という意味はありません。哲学者の西山雄二先生の講義に依拠しますが、「コーラー」の喩えとして、プラトンが《母》ではなく《乳母》としている点が重要であると。つまり自らは何も産み出さないという、、、
■ このあたりを独自に論考にまとめて次号のサイトゼロに投稿しようかな、、、
《写真展》開催中
IZU PHOTO MUSEUM
ゲストキュレーター:ジェフリー・バッチェン(写真史家)