平倉圭×國分功一郎×千葉雅也トークセッション



※解釈を大きく間違えていたので修正しました。(1月25日)


※千葉さん、すみませんでした。で、でも、あ、あなたを初めて見たときの驚きは、一生忘れることはないでしょう(汗。。


※皆様、あくまでも個人的な感想(創作)なので、楽しく読んで頂ければ幸いです。




 平倉圭『ゴダール的方法』(インスクリプト)刊行記念



■出演:平倉圭×國分功一郎×千葉雅也



■ タイトル:ドゥルーズ・映画・ゴダール


■ 日時:2011年1月22日(土)18:30〜20:30


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)


ゴダール的方法

ゴダール的方法



■50名を超えるお客様にご来場頂きました!



■ ありがとうございました。







  《感想文:ヒデ×サンデル×歌舞伎町ナンバーワン》




  
    素早い動きで相手ゴールへ迫るヒデ



  
    ヘディングシュート!



  
    ゴールを決めて、雄叫びをあげるヒデ!





   《ヒーローインタビュー》


  take 1



平倉:「何かを持っているといわれ続けてきましたが、きょう何を持っているかが分かりました。それはです」



監督:「は〜い、カット! 平倉君、そのままじゃないか! もう少しひねった答えを頼むよ!!」






  take 2




平倉:「何かを持っているといわれ続けてきましたが、きょう何を持っているかが分かりました。それは仲間です」



監督:「はい、OK! 平倉君、そうだよ。きょうに限ってはそう言って欲しかったんだよ」


いや〜、持つべきは仲間ですよ。


平倉圭著『ゴダール的方法』を読んで感じたのは、「この本にちゃんとレスポンスできる人がいったいいるだろうか?」という心配でした。僕のようにゴダールをほとんど見ていない人は無理だろうし、ゴダールを知りつくしている人は逆にもっと難しいんじゃないかと。


しかし、それは杞憂でした。國分功一郎さんと千葉雅也さんという平倉さんの研究仲間が、この大役を見事に務めてくださいました。






1.これからの「正しさ」の話をしよう




これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学



  
   いつものようにスーツでビシッと決めたサンデル先生。おい!ポケットから手を出せ!!



  
   いつものように激しいアクション交えた白熱講義!




まずはサンデル先生が応答し「平倉圭著『ゴダール的方法』と哲学」と題したレクチャをしてくださいました。



ゴダール的方法』は5つの章から成り立っています。

  平倉圭ゴダール的方法』



第1章 結合
1.正しさ
2.〈と〉と失語
3.実例教育


第2章 問いと非応答
1.ミキシング
2.非応答
3.問い=拷問


第3章 見逃し、聴き逃し
1.複数の顔
2.複数の視-聴
3.こことよそ


第4章 類似
1.ディゾル
2.ダイアグラム
3.分身


第5章 受苦と目撃
1.記憶喪失
2.受苦
3.目撃



サンデル先生が注目したのは第1章の「正しさ」について。前著『これからの「正義」の話をしよう』の問題意識から発展した問いかけでした。「正義justice」と「正しさjustesse」とが使い分けられています。サンデル先生が興味深いと指摘したのは平倉さんのこの記述です。




『東風』の問題は二つの段階に分解される。(1)スターリンはただの(juste)映像である。映像は何ものでもない。(2)にもかかわらず、正しい(juste)映像を発見しなければならない。問題は所与のイデオロギー的「正義justice」ならざる、「正しさjustesse」を、音-映像の錯綜のなかから見出すことなのだ。



音-映像の結合根拠が、原事象による統一にも、慣習にも、イデオロギー的な正義にも求められないとき、編集の問題は結合の内在的根拠をめぐるものとなる。しかし結合の内在的な「正しさ」とはいったい何を意味するのか。それはどのように発見されるのか。ここで結合が新しい経験の構成にかかわるものであるかぎり、「正しさ」をあらかじめ実体的な原理として措定することはできないはずだ。にもかかわらず結合の「正しさ」を思考しうるとしたらそれはいったいどのようにしてなのか。



平倉圭ゴダール的方法』p.36)




これに対するサンデル先生の応答は実にシャープです。レジュメの前半部分だけ、特別に紹介しましょう。




  0.映画と思考、映画の思考、映画が思考・・・




ゴダール曰く「映画が思考する」(p.9)。監督はその「証人=目撃者 témoin」。映画が思考するとは?



ゴダールによれば、映画とは「思考するフォルム」である(p.8,p.218)。ならば「フォルム」とは?



・「フォルム」とは映画に映し出される諸々の形態のことではなくて、複数の形態を重ね合わせた時に現れる「モアレ状のパターン」のことである(p.218)。



・一枚の映像はオリジナルな原事象へと送り返されてしまう。しかし二枚の映像はそうではない。二つの映像はその間で「類似」という、二つの映像にとって内在的な関係性の領野を創り出す(p.192)。


 → ゴダールにとって「見る」とはこの類似を見ることに他ならない(p.218)。


 →一つではなく二つ以上から出発すること。「二つ以上の映像によって思考すること」(p.192)






  1.ドゥルーズの「躊躇」、そして「正しさ」について




・この「類似」は徹底しており、見る者を当惑させるほど。


 →たとえば、『ヒア&ゼア こことよそ』に現れる、ヒットラーゴルダ・メイアを重ねる映像。



ゴダールにおいては諸々の映像が「類似」を通じて「なし崩し」的に結合されていく。



・哲学者ジル・ドゥルーズでさえ、こうしたなし崩しの編集を前にして躊躇を示す(p.184)。


ドゥルーズは「類似」という危険な問題を避け、「間隙」なるものを強調し、我々は「視覚的イメージの真の読解を行うには十分に成熟していない」からあの編集が受け入れ難いのだと述べる。



ドゥルーズはここで或る問いを避けている。それが『ゴダール的方法』を貫く問い。


→「結合が「正しい」とはいったいどういうことなのか」(p.34)。「正しいjuste」はゴダール自身の言葉。


→「所与のイデオロギー的「正義justice」ならざる、「正しさjustesse」を音-映像の錯綜のなかから見出すこと」(p.36)。






  2.映画の存在論からヒューム哲学へ




・「結合が「正しい」とはいったいどういうことなのか」は確かにゴダール的な問いであるが・・・。



・映画の物質的条件。「映画は徹頭徹尾、構成主義的なメディアである。〔・・・〕映画にはそれが到達すべき原事象は存在しえない」(p.28)。


→映画も音-映像の編集、結合によって作られており、いかなる映画もこの問いから逃れられない。


・したがって、ゴダールは映画を通じて映画の存在論をやろうとしているのではないか。平倉圭はその存在論を書物の中で明らかにしようとする  書物と映画の差異に周到に注意を払いながら(p.12-13)。




はい、ここからさらに展開していきますがひとまずここで切ります。そして、もう一点、サンデル先生が注目したポイントをあげておきます。




ゴダールは映画編集に関する新しい講義形態を発明している。すなわち結合の「正しさ」を、音と映像からなる「実例」の感覚的強度によって例示すること。同時に、タイミングを合わせた台詞によってその感覚の内部で注釈をおこなうこと。そこで「正しさ」は、関係の外在的記述というより、ショットの結合感覚を内側から印しづけるマーカーのようなものとして機能している。  「正しさ」が思考可能になるのは、この特異な「実例教育」によってではないだろうか?



証拠はない。あるいは証拠しかない。プラギー教授の講義の内実を、メタレベルで外在的に確証するような証言は存在しない。だがこの証言なき証拠の内在性にとどまることこそがプラギー教授の教えなのだ、と考えることができるはずだ。「教えてください[tell me]、教授!」と請うシェイクスピアJr.No.5に対して、プラギー教授は「見せるのだ! 語るのではない![Show ! Not tell !]」とと繰り返す。ゴダール的「結合」の奥義は、提示された音と映像の視-聴に内在することにおいてのみ伝えられる。実例提示によるこの講義形態は、翌1988年から制作が始まる『映画史』において全面化されていく。



平倉圭ゴダール的方法』pp.52-54.)




はい。サンデル先生が注目するのは、この「実例教育」です。




・正しさ



・実例教育


なるほど。



さて、サンデル先生がさすがなのは、平倉さんの論考をベースに自らの論考を1本書き上げてしまったということです。サンデル先生の講義は、ゴダールにおける「正しさ」への問いかけから始まり、平倉、ドゥルーズ、ヒュームと渡り、カントへと抜けていきます。そして平倉さんとはまた違った「正しさ」を導くのです。



ブラボー! サンデル先生!!



あっ! サンデル先生じゃなくて、國分功一郎先生でした!!!



スピノザの方法

スピノザの方法









2.平倉圭ゴダール的方法』と千葉雅也『インフラクティーク』




さて、続いてですが、ハプニングが!!!!!!



  



  



なんと歌舞伎町のナンバーワンが乱入しまして、というか乱入してまして、いつのまに!



マイクを握りしめて語り出すものだから、「この野郎!つまみ出すぞ!」とこちらは気が気でなかったのですが、この歌舞伎町のナンバーワンがなかなかいいことを言うのです。



だからこちらも堪忍してそのままにしておいたのです。お客様はさぞかし驚いたことでしょう!心臓によろしくない。



お詫びするとともに訂正させて頂きます。



なんと歌舞伎町のナンバーワンではなく、かの有名な千葉雅也さんだったのです!



ええ〜〜〜〜!!!!!



もうよのなか一体全体どうなってしまったことやら。東大が歌舞伎町化しているのか、それとも歌舞伎町が東大化しているのか?東大が先か、歌舞伎町が先か?



これをシミュラークルというのですか? ボードレール先生、違った、ボードリヤール先生!



それで「おまえは誰だ! 東大生か! 歌舞伎町のナンバーワンか!」って訪ねたら、



「僕です」



と答えやがった。



負けたよ。小僧。









さて。



千葉雅也さんが、平倉圭さんの『ゴダール的方法』のなかで着目したのが、「類似」だったんですね。


國分さんも指摘していましたが、ゴダールの「類似」というのがもう半端ないんですね。ゴダールにおいては諸々の映像が「類似」を通じて「なし崩し」的に結合されていくので、哲学者ジル・ドゥルーズでさえ、こうしたなし崩しの編集を前にして躊躇を示すという。。。


平倉さんはこの点について次のように述べています。

距離の設立と消失が同時に起こるその場所に、ゴダールはしかし、おそらく一つの名前を与えている。「似たものsemblable」というのがそれだ。ゴダールの全作品群を貫く鍵概念であるこの言葉は、本書の方法論全体を指す言葉でもある。すなわち、映画に「似る」ことの外的不可能性と内的不可避性において同時に分析を遂行すること。



映画に「似る」ことが不可能なのは、私たちが映画のすべてを見る-聴くことができないからだ。にもかかわらず私たちが不可避的に映画に「似て」しまうのは、私たちが映画に見た-聴いたと信じるものと、映画それじたいとを区別する基準が、私たちの経験の内部では決して与えられないからだ。そこで展開される分析は、端緒なき再帰性と身体の認知限界によってあらかじめ損なわれている。だがゴダールの映画の「思考」が姿を現すのは、映画を見る-聴く身体が避けることのできないこの損傷への内在を通してである。



(中略)



実際、ゴダールの言葉は単独で取り出して読むとしばしばほとんど意味不明であり、映画の具体的な音-映像構造とつきあわせることで初めて意味を発揮する。本書はその内在性の場から、映画理論が達成しようとする明瞭性の内的損傷そのものを問題化する映画理論を展開していく。それを  「理論theoria」という言葉がもともと「観ること」を意味したことを借りて  「失認的非理論a-theoria」と呼んでおこう。本書は、映画の「失認的非理論」をパフォームする。



平倉圭ゴダール的方法』pp.13-14.

それで、千葉さんは「いま僕が考えていることと平倉さんがゴダールを通じて考えようとしていることが似ている」というのです。



早速、千葉さんの論考をみてみましょう。『思想地図β vol.1』に収録されている「インフラクティーク序説」を!



思想地図β vol.1

思想地図β vol.1



この論文を僕は読めていなかったですね。この論文は、東浩紀さんの仕事を哲学のコンテクストにきっちりと位置づける、位置づけたとして評価できるというぐらいの読みでした。いやいや、こんなもんじゃないですね。この論考は。


近代からポストモダンにかけて、権力のテクノロジーは、個々人の内面性に介入する「規律訓練(ディシプリン)」から、(動物的な)群れとしての人々の統計的で外面的な「環境管理」へシフトしているとしばしば言われる。こうした状況下で、文化の諸相を「環境問題」として分析する生態学的なアプローチでの人文知が活性化しているが、そこで環境と呼ばれるものは、まずもって「情報環境」のことである。東浩紀の『動物化するポストモダン』に依拠して言うなら、「大きな物語」としてのイデオロギーの求心力が失われて以後、私たちの社会野は、諸々の「小さな物語」を派生するデータベースとなった。東によれば、データベースとは「大きな非物語」である。そして今日、〈世界のデータベース化〉をプラグマティックに引き受けている人文知は、「大きな非物語」がまさに大きく成立しうること、すなわち、そのなかで誤配の交錯が演じられる「情報環境」という家(オイコス)の、それなりに安定した  ベストエフォートでの  運営(オイコノミア)をその条件としている。しかしながら本稿では、この条件のありうる崩壊の方へと、想像力を引き攣らせてみる  「大きな非物語」としてのデータベースの、それなりに健常な誤配の生成力ではなく、いわば消尽する物体的な誤配の生成力、破壊的可塑性としての生成力へ。



「大きな非物語」としてのデータベースは、理念的な「物自体」のように想定される限りにおいて、大きな家でありうるだろう。けれども、表層と深層のあいだで戸惑っていたドゥルーズの「滑稽」さを引き受けて、いっそうひどく滑稽な経験論を採ってみるならば、私たちと情報環境それ自体が、疲労し、疲労を超えて消尽するという危機において、批評をリブートせねばならない。それは、インフラのトラブルに巻き込まれて墜落することについての批評というよりも、それ自体が墜落した批評、批評以下の批評、下-批評(インフラクティーク)である。


(中略)


私たちは、常時接続している最中において、なんらか複数のしかたで常時切断されている。図書館の時代と比べて、高度情報化の時代は、知の流通を加速させると同時に、知と非知、接続と切断の明滅をますます加速させるのであり、その明滅のリズムによって歴史のcorpusをいっそう多孔的に塑形するのである。情報-神経系の有限性=事故性によって取捨されてしまう情報断片の群れは、偶発的(アクシデンタル)なつながりを塑形してしまう。それが〈外多傷的〉なcorpusの、滑稽に怠惰なとでも言うべき破壊的可塑性なのである。



千葉雅也「インフラクティーク序説」『思想地図βvol.1』所収pp.290-292.




改めて、比較しましょう。


  《平倉》




失認的非理論




  《千葉》




破壊的可塑性




とほほ。



もう、ここまで来てしまったら、おじさんには、この世の終わり以外のなにものもイメージできないよ。。。。



滑稽に、怠惰な、



悲しいこと言うなよ。がんばろうよ。



ああ、、、





千葉さん、あとはもう任せたよ。







えっ!「もう誰も逃げられませんよ」だって???





そ、そんな!!!







(つづく)















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