住民参加プロジェクトの注意点



 4月6日のレポート『東日本大震災復興へのアプローチ』に補足




○ 住民参加プロジェクトの注意点



10年ほど前に開催した《21世紀建築会議2000・05ユニット「エコロジー」会議》の記録から引用する。


阪根正行 僕は住民参加というのを一度経験したことがあります。今、美術家の岡崎乾二郎さんが広島県の灰塚という場所で行っているプロジェクトがあります。


  灰塚アースワークプロジェクト


灰塚ダムという新しいダムが建設されることになって、住民の立ち退きの問題などが発生して、住民のコミュニティが崩れてきた。実際問題としては、そのダムの建設地にあたった人は、多大な補助金が出て立派な家に住めることになって、それがまたおかしなことになった。立ち退いていい家に住めることになった人と、結局立ち退かなくて済んだのだけど、今までの家に住み続けることになった人との間にやはり、何かしらのズレみたいなものが生まれてきた。そこへ第三者として岡崎さんたちが加わって、美術の展示会やワークショップなどをやって、住民のコミュニティを円滑にしようということをやっているのです。


それで、そのなかのプロジェクトの1つとして、住民参加の公園をつくろうということをやったのです。住民の人は、何も言わなかったら出てこないけど、何か言えば、それなりに興味を持って出てきてくれるのです。そして公園づくりをやっている時はそれなりに楽しいからやる。ただ、それがいつの間にか、すごい方向転換をして、ものすごく盛り上がってつくり続けて、何かとてつもないものができてしまったのです。でも住民が参加してつくったから文句の言いようがない。だから、住民側もこれは何かおかしいなって思いつつも、どこにあたっていいのか分からない。そして、それがとりあえず放置されてしまうということになったのです。


それで、できた時にプロジェクトに関わってきた人、その人は住民の意見を反映させることに自分が関わる意味があると言っていて、でも何かおかしな物ができてしまったので、「その時、あなたの立場はどうなるのですか?」と聞いたら、「これはもう仕方がない」というようなことを言ってました。



難波和彦建築家) 岡崎さん自身が言っていたのですか?



阪根 いいえ。これは岡崎さんのプロジェクトではなくて、ビオトープとかをやっている人のプロジェクトでした。その人が、新しい公園をつくるというときに、ビオトープとか、植物学の知識を住民に提供しつつ、住民がこういうことをやりたいと言ったら、こういう植物を植えたらいいとか、そういうアドバイスだけをする。自分がこうしなさいとはいっさい言わないで公園づくりを進めたわけです。



難波 そうしたら、変な公園ができたんだ?



阪根 はい。なにか微妙な配置の木があって、それに木を渡して結んで、これを公園の象徴である鳥居にしようとか言って本当にそうしてしまったのです。これはつくっている段階では、みな同意という感じだったのだけど、つくったあとに冷静になって考えると、やっぱりそういう神聖なものにこういう触れ方をするのは良くないってことになって・・・・。でもみんな自分たちがつくったから文句を言えない。



難波 分かるような気はしますね。これがもし岡崎さんだったら、途中で一喝して修正したでしょう。



阪根 たぶん。



難波 それはビオトープをやっている人の思考の構造と関係があるような気がします。彼らを非難するつもりはないけれども、思考の構造というか感性が、何か一石を投じることに対して、二の足を踏ませるようなパターンになっていることの現れではないか。総じてエコロジーをめざす建築家のデザインの切れが悪いのは、そういうところに原因があると思います。コーポラティブハウスがスカッとしないのも同じ理由だと思う。その点、「ハーレンの集合住宅」は、アトリエファイブが住民参加でやったのだけど、非常に切れのいいデザインになっている。



  
Atelier 5, Siedlung Halen, Herrenschwanden, Berne, 1955-61



   



それはやはり明確なビジョンをぶつけ合ったからじゃないか。それで、阪根君は住民参加に対して拒否反応を感じる訳か?



阪根 いや、この時、僕自身がプロセスアートなどに興味があって、そういうことで何か面白いことができると思っていたのに、「プロセス」と「出来たもの」は違うということをこういうかたちで見せつけられたので、ためらいがあります。



難波 実際にそのプロセスに立ち合ったの?



阪根 いいえ、最後にできてからです。



難波 「これはおかしい!」って誰かが言わなきゃ駄目だよね。多分みんなのど元あたりまでは出てきていたのだろうけど。それを言うのはよくない、みんな一緒にやっているときは、水を差すようなことを言ってはいけないという暗黙のマナーのようなものがあるんじゃないか。異論を自己規制するマナーがね。これは悪しき意味でとてもジャパニーズだと思う。


これは10年前の話で、今はもう少し状況が変わってきている。アルゴリズムという言葉に代表されるように、この手の研究が数学分野で蓄積され、その成果を活用することで、住民の合意形成の手法も幅広くなってきている。


ただ、例えば昨年末に出た『思想地図β vol.1』で特集されている「パターン」についても話されていること自体は10年前と変わらない。パターンしかり、オートポイエーシスしかり、アレグザンダーしかり。


大きく異なるのは、10年前は理論だけがあって、研究の事例が少な過ぎたこと。またコンピューターの性能が低かったのも致命的。だから10年前は机上の空論に過ぎなかったが、それが今では段階的に実用可能になってきている。その点、10年前よりも住民の意思を幅広く反映させることは可能だろう。



しかし、いくらシミュレーションが容易にでき、無数のパターンを提案できたとしても、誰かが「決定」せねばならない。それは昔も今も変わらない。




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