橋本コンパクトライフ




  



1.


けっきょく橋本に住むことにした。家賃を抑えたいという経済的な事情が一番大きいけれど、二つのことが決め手になったように思う。一つは、昨年研究会に参加するために橋本にある多摩美術大学に二回足を運んだことだ。新しいことを始める際、多くは偶然に左右されるけれど、全てがそういう訳ではなくて、一度足を運んだということや、知り合いから聞いたことがあるというような、ふとしたきっかけが大きく作用する。大学の先輩が日本から遠く離れたスイスの建築事務所で働いていたけれど、それはスイスを旅行したことがあったのと、その建築家が審査員だったコンペで入賞したことがあったので、もしかしたら雇ってもらえるかもしれないと思ってポートフォリオを送ったのが経緯らしい。ここでスイスを引き合いに出すのは大袈裟だけど、僕にとっては橋本も似たようなものだった。


もう一つは、設計事務所に勤めていた時に関わったプロジェクトのオーナーの影響である。この人は自らの手で会社を立ち上げた起業家で、「会社を設立した時は読売ランドに住んでいたけど、その後、会社が大きくなっていくのに伴って、杉並、渋谷へ移って行った」と話していた。この人の歩みを今の僕に重ね合わせて、これで行こうと思ったのである。そういえば、建築批評家のコーリン・ロウも片田舎のテキサスの学校で教鞭をとっていた時、自らをテキサスレンジャーズと名付けて「いずれニューヨークのアカデミーに乗り込んで一泡吹かせてやる」などと言っていた当時の野望を何かの論文で語っていた。周辺から中心を目指すというのは、なんだかワクワクするではないか。



2.


今回の引っ越しは非常にスムーズにいった。一人暮らしを長くやってきたこともあると思うが、今の自分に必要な物、必要な量がきっちりとつかめていたので、部屋に荷物が収まらないというような問題は起こらなかった。棚は一つしか置けないと分かっていたし、そこから逆算して手元に置ける本の量も検討がついていたし、机の大きさ、ベッドの大きさも適切なサイズが事前につかめていた。実感としては今ぐらいの歳(30歳)になってというのではなく、大学生になって東京に出て来た頃にすでにそうであって欲しいし、そう出来たのではないかと今からだと思えるのだけど、それはなかなか難しいだろう。やはり学生の経験、勤めた経験があって、ようやく掴めたというのが事実である。昨年付けた日記(未公開)にちょうど良いものがあるので紹介しよう。


 最小限



物はどんどん増えていく。
学生時代は蔵書数が800冊に至った。しかし、そのうち読んでいたのはせいぜい20〜30冊程度、稼働率2.5%、ホテルを例にとれば採算ラインは80%だから救いようのない倒産状態であった。ただでさえ狭いアパートの、天井に迫る高さの本棚にぎっしり並べられた本は、何か間違った知識欲、所有欲、達成欲をかき立ててくれたが、冷静に考えれば圧迫感を感じさせるし、場所を取って邪魔であった。本を置くために場所を取っていると考えると、やはり稼働していなければそれは負担でしかない。


本を読むためには絶対的な時間が必要である。また難易度が上がれば時間もかかるし、お手上げなんてこともある。その手の本を数冊ストックしておくのは良いとしても大量に保有することは致命傷である。冷静に考えれば明らかなことだが、それが分からなかった。学生時代は勉強会等で情報が多量に舞い込んで来て、テーマも多岐に渡った。また全般的に難易度も高かった。情報自体は的確だったので、それをもとに入手した本はどれも重要であり、本自体の価値から判断すると手放せなかった。問題なのは私自身のさばける量(力量)との釣り合いであった。私の力量と見合った難度と量、これがうまく保たれている必要があったが、それができていなかったのである。


ちょうど勤め始めた頃、学生時分のように自由な時間がとれなくなり、本棚にある本を読めないことが決定的となったので、自分の興味が高いテーマ順に並べ直して順位の低いテーマの本、また明らかに難しすぎる本を古本屋にリリースした。一度でなく十数回に渡って段階的にリリースしていった。しかしながら、そうやってリリースしながらも、懲りずにまた新たに本を購入していた。そんな本のなかには、明らかに読めないような難解な本で、その後リリースすることになってしまう本もあった。そんなことを繰り返しながら、手元に20冊程度のみを所有するまでに絞られた。


勤めていた時は、逆にリリースすることに病的だったかもしれない。過度に忙しく、時間にも心にも余裕が全くなかった。仕事が忙しい上に、仕事上覚えねばならない専門知識が多々あり、人文、学術系中心だった今までの本は、仕事に関する限り何の利益も上げない邪魔者であった。そういう本を読むことは、勉強ではなく、仕事からの逃避であり罪であった。ある意味では重要な本だったので古本屋に売らず実家に送ってストックすることもあったが、ある時、その手の本は絶滅した。それぐらい追い込まれていた。本棚には実務上必要な専門書が数冊置いてあるだけになった。


しかし、実務的な専門書ばかり読むというのもつらく、うまく行かなかったので、新たな妥協点を求めて読書に対する考え方を一新した。日曜日だけは実務とは関係のない本を読んで良いことにした。ただ、一日しか時間がとれないのだから、人文系の専門書を読むのは無理だ。それにただでさえ能力的に背伸びし過ぎているというのも問題であった。そのため、読書の対象をこれなら読めそうだという新書にレベルを落としたのだ。新書は人文系の重要文献を読むようにポイントを稼ぐことにはならないが、読む力はめっぽう伸びた。読んだら当然、色々と考えるし、またそれが次から次へとサイクルしていくので有機的なリズムが形成された。これは本当に大きな力になった。当時はまとまった量の原稿を書くことはなかったので、読んだらちょっとした感想をブログに書くか、あるいはマーカーを引いた箇所だけを読み返してすぐに捨てた。もともと仕事からの逃避としての読書だから、実務に関係ない、そういった本が本棚にあるのが目に入るだけで罪の意識に駆られたからだ。やはり病的だった。


(2005.11.04)

今はそういう状態も越えた。今後は文章を本格的に書く体制に入る。当面、学生時代のような背伸びした難書を買い込んだりはしないが、読んで戦力になると思った本は本棚にストックして行こうと思う。まとまった文章を書く場合にはやはり必要になるだろうし、それによって文体は幾分おとなしくなってしまうだろうが、それはそれで良いとしようではないか。



3.


このように僕自身への修正が幾度となく施され、ようやく自分のサイズを見い出したのである。ただ、今回、橋本での生活をうまくスタートできた理由としては、以前に比べて生活環境が良くなったことも大きい。僕は東京に出て来た当初、渋谷にある親戚のマンションに居候していた。二年程で引っ越したけれど、次に住んだのが梅ヶ丘(下北沢付近)で、大学は飯田橋にあって、卒業してから勤めた事務所は学芸大学(東横線)にあった。僕が経験していた東京は渋谷から電車で15分以内のエリアで、言うなれば、僕はバリバリのシティボーイだった訳だ。しかし、正直住みやすいとは思わなかった。当時は表参道の同潤会アパートはもちろん、代官山の同潤会アパートもまだあって、旧山手通り〜代官山、代々木公園〜表参道〜青山といった辺りは、なかなか好きな場所だった。デートやショッピングをするには持って来いの場所だった。しかし悲しいかな、当時好きだった子とはあまり良い関係に至らなかったので恩恵は少なかったし、さえない野郎三人で写真を撮って歩き回った記憶ぐらいしかない。まあ、これはプライベートな問題で僕に非があるようだけど、それとは別に決定的だったのは、渋谷にはスーパーがなかったことだ。正確に言えば東急会館の地下に東急ストアがあったけれど、学校の帰りに寄るというような立地条件ではなかったし、また東急プラザの地下には市場があったけれど、品物が選別されていて、あまり気軽に買えるような感じではなかった。さらに決定的に悪影響だったのは、渋谷は毎日人で溢れているので、そこにずっといると、世間の人は毎日遊んでいるのだと錯覚してしまうということである。毎日違う人が入れ替わり立ち替わり来ているのだけど、中にいるとそういう見分けはつかない。生活感が希薄になっても仕方がない環境である。昨年末ニューヨーク・マンハッタンに行ったけれど、あまり魅力を感じなかったのはこのような教訓をすでに受けていたからだろう。渋谷という街は学生が一人暮らしを確立するにはハードルが高すぎたのだ。


それと比べると橋本は住みやすい場所である。駅前には大型スーパーも、スタバも、書店も、図書館もある。さらに100円ショップや無印良品まである。また、そういった都市型ショッピングセンターに加えて、少し歩けば、国道16号線沿いに大型ホームセンター、スポーツショップユニクロ等が集まった郊外型ショッピングセンターもある。アメリカに行った時、ウォルマートやターゲットといった大型スーパーやホームデポといった大型ホームセンターを見て便利だと感じたけれど、日本でも郊外や地方の幹線道路沿いには、そういった店がすでにあったのだ。それに加えて、電車で15分の八王子や町田にはデパート、ヨドバシカメラ東急ハンズ等がある。わざわざ新宿・渋谷まで行く必要はほとんどない。橋本に来るまでは、都心からの距離で土地の価値を判断して、新宿から40分は遠いし、八王子〜橋本〜町田〜長津田を結ぶ横浜線というのは、なんだか東京エリアの土俵際のようなイメージであまりいい感じはしなかった。しかし、ここに来てみると都心との人の行き来よりも、横浜線で行き来している人の方が多いようで、実は土俵際ではなく、横浜線沿線で独自に自律した生活圏が形成されており、橋本は都心を向いている街ではなく、都心に出ようと思えば出られるということがメリットになっている場所なのだと分かった。



4.


橋本に来て三週間ほどになる。アパートも南側の陽の当たる部屋が運良くとれたし、なかなか快適である。非常に満足している。当初は、郊外の悲惨な貧乏臭漂うアパート生活をイメージして「いずれは都心に住んでやる!」といったハングリー精神で伸し上がろうと思っていたが、想定外のスタートとなってしまった。でも貧乏臭自体は害悪であって決してプラスではない。それに嵌まるとなかなか抜け出せないし、抜け出すために大きな力を注がねばならない。それが運良く免除されたのだから、素直に喜ぼう。そして本当に力を注がねばならない執筆に、より一層力を入れて頑張ろう。



※ 一応断っておくが、生活感の薄い渋谷よりも橋本の方が住みやすいというのは本音だけど、横浜線を越えて、相模湖あたりまで行ってしまった場合、その生活を肯定できるかと言えば疑問である。郊外でのコンパクトライフはポジティブに発信できそうだけど、自然に帰ろうといったいわゆるスローライフまでは声を大にして言えない。今回の生活の決め手は大型スーパーであったし、家賃の安い狭い部屋でも生活が可能になった大きな要因として、パソコンやテレビの小型化、薄型化も欠かせない。流通業の最先端や、最も競争が激化しているテクノロジーにおんぶにだっこになって自分サイズのコンパクトライフが実現しているという事実は否定できず複雑な気持ちである。個人レベルのバランスを保つ以上に社会的規模でのバランスを保つことの難しさを改めて痛感している。

(2006年3月13日)







   《写真引用元》



   faint but strong something*雰囲気と写真