内田樹『下流志向』解題






“生きる”の欠如


1.“生きる”の実感


一年生が終われば次は二年生。二年生が終われば三年生。小学校を卒業すれば次は中学校、高校へと進み、受験をパスすれば大学に入学する。そしてまた一年生が終われば二年生へと進んで行く。学校に通っていたときは一年々々が明確に意識され、一年ごとに一段ずつ階段を登って行く、そういう感覚だった。


それが会社勤めをはじめた頃からだろうか、その一年が明確に感じられなくなってきた。毎日、毎日同じことの繰り返しで1年が過ぎて行き、次の1年も同じように過ぎて行く。担当物件が変わったり、暇な日があったり、忙しい日があったり、コンペの提出があったりと、それなりに変化はあるのだけど、一年が区切りとして明確に感じられることはなくなった。階段を一段ずつ登っていたように感じていた学生時代に対して、同じところをぐるぐる、ぐるぐる。正確に言えば、毎日がかわるがわるで、全く同じ軌道を描いているわけではないけれども、同じようなところをただただ回っている、そんな感覚へと変わっていった。

都市生活の中でいかに時間性を回復するかというのは、すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども、一つあるとすれば、ルーティンを守ることです。日課を崩さない。意外かもしれませんが、都市化のもたらしたいちばん大きな変化は、人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。[※2]


そう、“ルーティン”。これは思っている以上に大切なことかもしれない。会社勤めを始めてから、日々の流れが急激に速くなったと感じられた。毎日やってくる日々に流されないように、生活のリズム、朝起きる時間、夜寝る時間、三度の食事などを意識して整えて挑むようになった。学生の頃はそんなことを全然考えもしなかったのに。


今思えば、学生の頃、登っていたと感じられていた「階段」は、社会制度として人工的に作られたものであって、それによって感じていた一年々々が過ぎてゆくという「時間」の感覚は、言ってみれば「バーチャル」な時間であって「リアル」な時間ではなかったように思う。時間は登るのでもなく下るのでもない。ただただ流れてやってくる。ボーッとしていたら流されてしまう、だから流されないために呼吸を整えて、巧みに流れに乗っていく。“生きる”という感覚を表現するならば、そんな感覚の方がリアルかもしれない。



2.ニート、クレーマーの論理


内田樹下流志向』(※1)を読む。

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち


「学級崩壊」「学力低下」「ニート」、あるいは「クレーマー」といった昨今、深刻化している社会問題が論じられた一冊。これらの問題の根底には、市場原理に毒された、個々の勝手なものの見方があることが、唐突ではあるが、しかし明快に指摘されている。授業中にふらふらと立ち歩いたり、働くことを拒絶したり、すでに着てしまった洋服を平気で返品したりといった、これらの社会的秩序を乱す行為は一見、何の考えもなしに、人間的理性を失った動物的衝動によって行われているようにも見える。しかし、そうではなく、彼ら(彼女ら)なりの考えに基づいた上で、このような不可解な行動がとられていると内田氏は指摘する。


その不可解な行動に至る彼らの一連の思考というのは、市場原理(等価交換)を前提として、与えられたサービスに対してその良否を判定し、その判定結果を行動として露骨に表現するというものである。教育現場で子どもたちは自らを「教育サービスの買い手」と考え、「僕はこれだけ払うんだけど(話を聞いたり、ノートをとったりするのだけど)、それに対して先生は何をくれるの?」という態度をとったり、「学ぶことは何の役に立つのか?」と訊いてくる(※3)。労働現場では「努力と成果(賃金や威信)が相関しない、そのような不合理なことは私にはできない」(※4)と主張し、無業者であることを選択する。商品を購入する場合は「この商品を買ったせいで私は不愉快になっている」という態度をとって駆け引きをする。「提供された商品に満足しないことは(自らに)利益をもたらす」、有利に働くと考えて行動してしまう(※5)。


これらの歪んだ行動をとる人々に対して、端的に指摘できる問題は2点ある。1つは、彼らが無意識のうちに「買い手」という立場を先取りしてしまっている、自らを消費主体として位置づけてしまうという点(※6)。もう1つは、市場原理(等価交換)というのはフィクション(ゲーム)であり、ものの見方の根拠にはならないということが理解されていない点である。


【消費主体という錯覚】


前者の問題点については2つのことが言える。1つ目は以下([※7]〜[※10])の問題である。

今の子どもたちと、今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入って行くときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。 [※7]


消費から社会関係に入ったために「与えられる」ということが当たり前だと錯覚してしまっている。そのために彼らは[※9]のような誤った理解をしており、E.フロムの言葉で言うならば本来の「教育への自由」から「教育からの自由」(※8)へと問題をすり替えてしまっている。

「義務教育」という言葉を、今の子どもたちは「教育を受ける義務がある」というふうに理解しています。もちろんこれは間違いで、子どもには「教育を受ける義務」なんかありません。子どもには「教育を受ける権利」があるだけです。[※9]


そして、こういった屈折したものの見方が定着してしまうことで、[※10]のような本質的な事実が見えなくなり、横暴化してしまう。

世界には戦争や災害で学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいます。他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを口にすることができる。そして、自分たちがそのような問いを口にすることができるということそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだということを、彼らは知りません。 [※10]

2つ目の問題は、消費行動の原理が何にでも適用できる訳ではないということである。例えばニートには、消費行動の原理を労働原理にそのまま適用することはできないという事実[※11]が理解されていない。

「仕事をする」ということを消費の用語で考えるなら、すべての労働者はアンフェアな交換をしていることになります。というのは、労働に対して賃金が少ないというのは原理的には当たり前のことだからです。
賃金というのは労働者が作り出した労働価値に対してつねに少ない。当然です。そうでなければ、そもそも企業は利潤というものを上げることができない。株主に対する配当もできないし、設備投資もできないし、研究開発もできない。それらの経済活動の原資はすべて労働者から「収奪」した労働価値によってまかなっているわけです。労働者は、自分が創出した労働価値よりも少ない賃金しか受け取れないというのは経済の基本です。そこで生じた剰余が、交換を加速してゆき、その結果、市場が形成され、分業が始まり、階級や国家ができあがる、というかたちで人間社会は作られてきた。
労働というのは本質的にオーバーアチーブなのです。 [※11]


この事実が理解できず、一貫して経済合理性で考え行動をとる人は、必ずといってよいほど「最も少ない労働で、最も多くの利益を出すこと」、「最も少ない努力で、最も多き成果を得ること」を最高善とする思想(※12)に至る。その結果、以下のような社会の仕組み[※13]を全く理解できなくなってしまう。

「雪かき仕事」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道ばたに寄せておくだけです。起き出した人々がその道を歩いているときには雪かきをした人はもう姿を消している。だから、誰がそれをしたか、みんな知らないし、当然感謝される機会もない。でも、この人が雪かきをしておかなかったら、雪は凍り付いて、そこを歩く人の中には転んで足首をくじいた人がいたかもしれない。そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所要所にいないと、世の中は回ってゆかない。 [※13]

【市場原理(等価交換)とは】


次に後者について。市場原理(等価交換)が成立するとはどういうことかを考えてほしい。

等価性というのは時間を捨象(結果を先取り)したときにはじめて成立する概念なのです。 [※14]


すなわち等価交換とは本来分からないはずの将来(結果)を、あたかも分かることと仮定(飛躍)することによって初めて成り立つという強引な概念であることを認識して欲しい。よって、これを教育に適用するには無理があるし([※15〜16])、商品を購入する場合であっても、等価交換は便宜上のルールであって厳密には成立しない、絶対的な判断根拠にはならないということを理解しておく必要がある。

危機的なのは、子どもの目から見て、学校が提供する「教育サービス」のうち、その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。学校教育の場で子どもたちに示されているもののかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわからないものです。当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。
教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにあります。 [※15]

等価交換の原則を学校教育に当てはめることを許したら、もう教育は立ちゆきません。現に立ちゆかなくなりました。もし生徒たちが消費主体であると認めてしまったら、教育の場で差し出されるものに何の意味があるのか、どれほどの価値があるのかを決める権利は子どもたちに委ねられることになります。
「私は自分がその価値を知っている商品だけを適正な対価を支払って買い入れる」
消費主体としての子どもたちはそう高らかに宣言しつつ学校に入ってくるわけです。そんな子どもたちが静かに授業を聴くはずがありません。
学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。 [※16]

先に市場原理に毒されたものの見方と表現したが、それは市場=世界ではないからである。市場とは言ってみればバーチャル(ゲーム)な世界であって、リアルな世界では決してない。そのバーチャルであるところの市場原理(等価交換)を盾にとって、その過度な厳密性を要求したり、あるいはそれを論拠に行動することが如何におかしなことであるかが理解できたと思う。しかし、それ以上に問題なのは、等価交換(結果、将来の先取り)の論理が先行してしまうことによる弊害の深刻さである。

学ぶことを例にとってみても、本来は「何を習っているのか分からない、将来が分からない」という事実が、学ぶ動機になるべきであり、また時間の経過に伴って変化し、向上させていくことが目標なのである(※17)。しかし、それに反して市場原理を前提化してしまうとどうなるか。

変化することを禁じられているというのが消費主体の宿命なのです。 [※18]


等価交換を成立させるために、教育の本来の目標である「変化」を禁じられてしまう。

学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。 [※19]


等価交換を成立させるために、本来分からないはずの将来や「能力を向上させる能力」を強引に計測できるものに落し込んでしまう。そうすることによって教育の本質を逃してしまうという問題が発生する。


そもそも市場原理(等価交換)というシステムは、それが成り立たないにも関わらず、将来が分からないという不安を和らげるために制定された社会的ルール、社会の秩序を維持するための最低限のガイドラインであり、世界の代理表象でも真理でもない。この人工的につくられたルールが独り歩きして「将来は分からない」という真実が忘れ去られてしまうことの弊害。市場原理を絶対視して、結果を先取りしてしまうこと。つまり彼らはそうやって時間を消去してしまうことで、リアルな世界、すなわち“生きる”という真実を見失ってしまう危険にさらされているのである。


例えば、2000本のヒットを打ったからといって、イチロー選手が挑む次の打席で、ヒットを打てるという保証は全くない。打てるかどうかは分からない。それが真実である。かといって、2000本打ったという事実は無駄ではなく消えることもない。そして、その経験は新たに向かう打席で何かしらプラスの作用を生み出すだろう。


ニートやクレーマーをこの場面で例えるならば、2000本という数字に目がくらんだのがクレーマーであり、2000本という数字には意味がないと極論したのがニートということになろうか。2000本という数字をどう解釈するかは個人の勝手ではあるが、彼らに共通する問題は、日々新たな打席に立つという最も大切なこと、リアルな世界を“生きる”ということを忘れてしまっていることである。こういった人に、とやかく言う必要はない。次の一言を授けるだけで十分である。



3.ドロシーの論理

「どうもよくわからんな。おまえさんがどうして、このきれいな国から、カンザスとかいう、からからにかわいた灰色の土地に帰りたいのか。」
「それはあなたに脳みそがないからよ。」ドロシーは言いました。「どんなに灰色で殺風景なところでも、わが家はわが家よ。わたしたちなまみの人間は、ほかの国がどんなにきれいでも、やっぱりわが家に住みたいと思うものなの。わが家ほどいいところはないのよ。」
かかしはためいきをつきました。
(フランク・ボーム『オズの魔法使い』)※20

4.生の哲学


なにも知らないただの小さな女の子であるドロシーが「我が家に帰りたい」と言うように、“生きる”とは、それ以上でも以下でもない、“生きる”そのものである。このドロシーの言葉を前にしたら、「恐れ入りました」ともう何も言えず、考えることを停止するしかないようにも思えてしまうが、思考を深めることによっても、ドロシーの言うような真実に近づくことはできる。それが“哲学”の実践である。この哲学が欠如しているという問題は、現代社会が抱えている問題の1つであると指摘できる。著名な政治家や経営者の発言を聞いていても、哲学の欠如を感じることがしばしばある。その著作にカントなどという名前が引用されることもあるが、その唐突さ、脈絡の不自然さが感じられて「この人、カントを読んでないな」と実感させられるのが常である。


内田樹下流志向』。この著作の魅力を改めて述べるならば、それはニート、クレーマーといった社会問題の分析に留まらず、エマニュエル・レヴィナスの研究者という、内田氏の哲学者としての一面が可能とした、独特な考え方、世界観が記されている点であろう(注1)。

「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。それだけで十分なんです。弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。(中略)
教育者に必要なのは一つだけでいい。「師を持っている」ということだけでいい。 [※21]

二十四の瞳』の大石先生という人がひどい先生なんです。女学校を出たばかりの若い先生で、教師としてはまったく無能で。(中略)
でも、重要なのは、この「全然教師としての責任を果たせない先生」が戦前の日本ではちゃんと教育者として機能していたという事実の方です。今だったら大学二年生くらいの、まことに頼りない女の子に向かって、子どもたちが全身を委ねるようにぶつかってくる。それを大石先生も必死で受け止めようとする。受け止められないんですけれど、とにかく受け止めようとはする。それだけで教育はきちんと機能していた。
昔は先生が立派だったということを言う人がいますけれど、僕はそれは違うんじゃないかと思うんです。大石先生なんか、今の小学校に連れてきたら、たぶんあっという間に学級崩壊してしまうほどに指導力のない先生です。でも、そんなか弱い女の子が理想の教師たりえた。そういう師弟関係の力学がちゃんと昭和のはじめまでは機能していた。個人の力量の問題じゃなくて、制度としてきちんと機能していた。 [※22]

優れたリーダーはスーパービジネスマンではない。(中略)私も「優秀なスーパーマンではなくても尊敬される」というあり方がいちばんの原点じゃないかと思います。(中略)Aさんがおっしゃる通り、人から尊敬される方法は一つしかないんです。「人を尊敬するとはどういうことか」を身をもって示せるということです。(中略)自分がしてないことを人にさせるのは無理です。 [※23]


聞き流せばすんなりと耳に入ってくるように思うけれども、実に味わい深い言説である。それぞれを哲学用語で補足するならば、1つ目は「他者」について、2つ目は「愛」について、そして3つ目は「超越的/超越論的」について語られている。


市場=世界ではない。市場とはうまく付き合っていくものであって、絶対視するものではない。そして、我々は市場原理で張り巡らされた世界とは異なった、リアルな世界があるという認識を持って、“生きる”力を回復していく必要がある。“哲学”とは“生きる”ことの一つの現れなのだと、内田氏のこの言説をかみしめながら、しみじみと感じた。



5.そして再び“生きる”


下流志向』を読んで教育現場やニートの問題を深刻であると感じ、また政治家や経営者のいたらなさを指摘した身として、無責任であるとは思うが、教育の問題を制度的にいじくって改善できるとは思わない。なぜなら制度というのは、あくまでも「階段」を築くことだから。我々に必要なのは階段ではなく“生きる”ことの実感である。階段作りは優秀な政治家の大先生方に任せておけばよい。我々はスタンスさえ確認しておけば、それでよい。その態度が表明された、内田のおじさんのこの言葉で本稿を締めたいと思う。このおじさんは何者なのか?実態をつかめないもどかしさはあるが嫌いではない。この際、むしろ「好きである」と言ってしまおうか。こういうことが言える人に悪い人はいないから(注2)。

私は博士課程を出て、オーバードクターを何年かして、それでも専任の口がなければ、あきらめてまた会社勤めをしようと思っていた。でも、そのことは私の学習意欲をそれほどには損なわなかった。というのは、「いずれサラリーマンになってしまうのだとすれば、思い切り勉強できるのは、いましかない」と考えたからである。「結果をどう評価されるかという期待で不安になること」よりも、「自分がやりたいことを思い切りできるいまの身の上を幸運と思うこと」を優先させたのである。だから、博士課程において、私は学力は決して高くはないが、研究のモチベーションだけは非常に高い院生だった。

そのとき私は「こうやってばりばり勉強していれば、きっといつか『いいこと』がある」という未来予測の確かさに支えられて勉強していたわけではなく、「こうしてばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは、いまだけかも知れない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していたのである。学問研究というのは、わりと「そういうもの」ではないかと思う。(中略)

学習を動機づける人間的ファクターの中には、「努力に対する将来的リターン」の期待だけでなく、「努力そのものから得られる知的享楽」も含まれているということを言っておきたかったのである。そして、たぶんいまの学校教育でいちばん言及されないことの一つが、「学ぶことそれ自体がもたらす快楽」だということである。 [※24]

(初出 2007年4月10日)



※ photo by montrez moi les photos
  http://b69.montrezmoilesphotos.com/




※1 内田樹下流志向』講談社
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0206213827
※2 同上p.225.
※3 同上pp.32-33、p.43から抜粋し、一部書き換えて引用。
※4 同上p.143から抜粋し、一部書き換えて引用。
※5 同上p.58から抜粋し、一部書き換えて引用。( )内は拙者が補足。
※6 同上p.43から抜粋し、一部書き換えて引用。
※7 同上p.38.
※8 エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社参照のこと。
   http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0185151850
※9 内田樹下流志向』p.33.
※10 同上p.35.
※11 同上pp.136-137.
※12 同上p.145から抜粋して引用。
※13 同上p.128.
※14 同上p.136.( )内は拙者が補足。
※15 同上p.46.
※16 同上pp.59-60.
※17 同上p.63、pp.159-160から抜粋し、一部書き換えて引用。
※18 同上p.154.
※19 同上p.159.
※20 フランク・ボーム『オズの魔法使い岩波少年文庫pp.42-43.
※21 内田樹下流志向』p.178、p.184から抜粋して引用。
※22 同上pp.181-182から抜粋して引用。
※23 同上pp.185-187、p.189から抜粋して引用。ディスカッションにおける発言であり、内田氏以外の発言からも抜粋して引用。
※24 内田樹『狼少年のパラドクス』朝日新聞社pp.42-43から抜粋して引用。
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0202330377


(注1)内田氏がこのような独特な見解を示すに至った背景には、内田氏が師と仰ぐ哲学者エマニュエル・レヴィナスの存在があったことが指摘できる。レヴィナスについては内田氏の別著『レヴィナスと愛の現象学』(※25)を参照されたい。ハードコアで難解な著作であるが非常に刺激的な作品である。拙者も通読した程度で日を改めて再読するつもりであるが、その中から示唆に富むレヴィナスの発言を2点ほど孫引きして紹介しておく。

師としての他者は私たちに他者性の一つのモデルを提供してくれるだろう。師の他者性は、単に私との関係で異他的であるのではない。師の他者性は「他なるもの」の本質に属しているにもかかわらず、一人の私を起点にしてしかかたちをとることのない、そのような他者性なのである。(※26)

愛は何も把持しない。愛は概念に到達しない。愛は何にも到達しない。愛は主体ー対象、私ーあなたという構造を持たない。対象を固定する主体としても、可能なものへ向けての投ー企としても、エロスは成就されない。エロスの運動とは、可能なものの彼方へ向かうことなのである。(※27)

※25 内田樹レヴィナスと愛の現象学せりか書房
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0101907724
※26 同上p.23.
※27 同上p.294.

(注2)某有名女子大の教授である内田氏はエリート学者と言える。しかし同じくレヴィナスの研究者である熊野純彦氏と比較すれば、“スマート”の代名詞である熊野氏に対して、内田氏は“アウトロー”と呼ぶ方が相応しいかもしれない。また、その活動のスタイルは幅が広い。哲学者であり、映画評論家であり、合気道の実践家でもある。著作も難解な専門書から新書からブログまでと多チャンネルであり、実に幅広い読者とリンクしている。
このような内田氏の特異性を感じるためには、氏の別著『狼少年のパラドクス』(※28)を読まれることをお勧めする。かつての日比谷高校、団塊の世代全共闘世代、今では知ることのできない独特の空気をその文章から味わうことができる。

※28 内田樹『狼少年のパラドクス』朝日新聞社
    http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0202330377




下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版



[ニュース]
内田樹先生が第6回小林秀雄賞を受賞されました。
おめでとうございます。

http://www.shinchosha.co.jp/kobayashisho/

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)