福嶋亮大×池田純一トークセッション



 『神話が考える』(青土者)刊行記念トーク


出演:  福嶋亮大 × 池田純一



タイトル:『神話が考える』の後に


    村上春樹1Q84」・情報社会・批評のこれから   

■ 日時:2010年5月6日(木)19:20〜21:00


■ 会場:ジュンク堂書店新宿店(8F喫茶コーナー)



  《感想文:批評は自律できるのか?》 




  


  


すでに「福嶋亮大×池田純一」トークセッションのレポートを書くタイミングを逃してしまったけれども、質疑応答での池上高志先生(複雑系研究者)からの質問がずっと気になっている。とにかくスッキリしないので私が勝手に考えたことをメモしておく。(あくまでも参考程度に読んでください。)


福嶋亮大さんの本のタイトルが『神話を考える』ではなく『神話が考える』だから、当然複雑系研究者やシステム論者が食い付てくる訳だ。でも、池上先生がトークを聞きに来てくださったというのは本当にうれしい!


その池上先生からの質問の内容は、複雑系研究者から見た文芸批評への期待(不満)という独特の視点で語られたので少しわかりづらかったのだけど、ひと言でいえばこうだろう。



  批評は自律できるのか? 

小説(一次生成物)があって、それを受けて批評(二次生成物)があるというのが一般的な認識だ。しかし、これに対して池上先生は、このように小説が一次で批評が二次といった階層がそのまま残るならば面白くない。それでは昔の批評となんら変わらない、『神話が考える』ではなく『神話を考える』にすぎないと。そして『神話が考える』であるならば、この一次、二次の壁は取っ払われるべきであると。


では、それがいったいどういうことなのか? その解釈が難しく、またあの時は閉店時間が押し迫っていたということもあり十分な議論ができなかったので、以下、私なりに議論を進めてみたいと思う。


まず考えられるのは、小説(一次)、批評(二次)の階層を取っ払って「小説=批評」にすること。たとえば小説家の保坂和志さんが書いた《小説論》(「小説の自由」「小説の誕生」「小説、世界の奏でる音楽」)をイメージするとよいかもしれない。しかし、池上先生もこのようなことは言ってなかったし、福嶋さん、池田さんもこのようなビジョンは持っていないようだった。確かに保坂さんのように小説を書きながら長編の評論を書くというのは面白いし、また東浩紀さんのように批評を書きながら小説を書くというのも面白いと思う。ただみんながそうである必要はないと思うし、基本的に小説家は小説を書いて、批評家は批評を書けばよいと思う。


ならばどういうことなのか? 池上先生が言っていたのは「批評=理論」であって、その理論が二次生成物ではなく、そのまま現実に効果を及ぼすものでなければならないということ。このあたりが複雑系研究者独特の考え方で、池上先生がどういったものをイメージしているのか分からなかったし、意味が取れなかったので、改めて少しずつ考えて行こう。


僕が理解できたのは、理論が二次生成物ではダメだということ。つまり現実(一次生成物)があって、そこからあるデーターを抽出して作り上げた理論(二次生成物)ではダメだということ。単なるモデルではダメだということ。モデルというのはある特殊な場でのみ通用するのであって一般性は有していない。このモデルを一般化するためには、それこそまた新たな理論を作り上げねばならない。複雑系(物理)の研究者は、こういった失敗をイヤというほど経験しているから、この点にこだわって、あくまでも「現実=理論」(一次生成物)でなければならないと言うのだろう。


ただやはりこの「現実=理論」というのがよく分からないし、これは複雑系研究者の傲慢ではないかとも思う。「そんなことできるの?」って思ってしまう。あの時もちょうど「ウェブ空間」が例にあがったのだけど、「ウェブ空間=現実」として「ウェブ空間=理論」とはどういうことなのか? 理論によって、ウェブ上で日々行われていることが説明できる、あるいは予想できるということなのか? そう考えるとなんだか全能感たっぷりで恐ろしい気がするけれども、福嶋さんや池田さんに指摘されていたように、冷静に考えるとこれって「要するに何でもアリってことでしょ。理論構築を放棄することと何が違うの?」ということにならないか。


議論がこういう方向へ進むと池上先生も「そういうことじゃない」と議論がまったくかみ合わなくなったのだけど、いったいどういうことなのだろう? 池上先生の著書『動きが生命をつくる』を棚から引っ張り出して、ざっと読み直して気になる記述があったので引用する。



複雑系において分かる、理解するというのは、ストーリー(物語)が組み立てられることである。「ストーリーテリング」(物語)は、往々にして実際以上にその本質を雄弁に語ることがある。例えば、遺伝子の働きや量子の世界、脳の働きは、物語なくしては理解に困難である。物語とは、役者を取り出し/作り出し、その因果的な推移を語ることである。


もちろん、なぜ水が0度で凍るか、ということと、生命や意識の語り方は同じには出来ない。原子・分子だけを役者にしよう、というのが物理フレームの原理主義的な立場だとしたら、より妥当な役者、物理フレーム以外の「中間レベル」を求めてきたのが複雑系である。


物理フレーム原理主義者からは、中間レベルなんかは、人の作り出した方便で精密ではない、ということをいわれる。例えば、リンパ球はばい菌を攻撃する、という中間レベルの記述に対し、実際はリンパ球は別に「攻撃」しない、とするのが物理フレーム原理主義だ。それは単なる大きな分子どうしの相互作用だという。事実、リンパ球がばい菌を攻撃する、という物語をそのまま乗せてしまったモデル/シミュレーションは、リンパ球という役者の持つ不透明さに細胞免疫システムの本質が隠蔽されてしまって、何故「自己」が守られるのか、というストーリー自体に説得力がなくなってしまう。


一方、ある言葉をきいて女の子が駆け出す。これを物理フレーム原理主義で考えてもらちがあかないのは明白である。ひとつは物理フレームですむものであり、もうひとつは物理フレームに乗っかかりつつも、他の役者を立てざるを得ない中間層のストーリーテリングという記述方法が必要だ。生命は後者に属している。


本書の中では結果的に、特にビークルを使った認知モデルのシミュレーションを、ストーリーテリングという方法で解釈し、可能な認知の姿を描き出してきた。例えばマイクロスリップの実験を例にしてみると、単純な二つのオブジェクトを選択するという数理モデルの力学的挙動と、心理実験で見いだされるマイクロスリップをつないでみせた。それは定量的な予測にならないが、定性的な予測ができる。むしろ定性的な予測ということを可能にしたのは、そうしたコンピュータモデルによるストーリーテリングである。


現在この中間層+ストーリーテリングというアプローチは、一見危機に直面している。理由は逆説的に聞こえるが、コンピュータが速くなったからである。コンピュータが速くなれば、ストーリーなどという小難しいことを考えずに、とりあえず巨大な物理フレームの「シミュレーション」を片端からやってみて、それから考えればいいというわけだ。そこには中間層は介在しない。生命も意識もそのなかでエミュレートされるならば、つまり世界そのものがほぼ複製されるならば、中間層をもうけたストーリーテリングをあえて考える必要はなくなるという。まるごとのシミュレーションが、そのままストーリーテリングと中間層に取って代わるのである。しかし、前にも議論したように、原子分子のミクロなレベルからの構成がマクロな理解につながるわけではない。ではどうすればいいか。熱力学の復権のような現象論は、どうすれば可能になるのか。


この問題は、実はアートの世界では早くから、まったく別なコンテキストから問題にされていたように思う。そこでこの問題をアートの側から再検討し、ストーリーテリングと中間層をいったん切り離し、あたらしい中間層をテクスチャーとして復権させようと思う。


(池上高志『動きが生命をつくる』青土社 pp.200-202. より)

「まるごとのシミュレーション」とは何とも恐ろしいことだ!本当にできるのかどうか分からないけど。それはさておき、このあたりは池上先生の研究の核心と言える箇所なのだけど「ここでアートを持ち出していて大丈夫なの?」と少し不安に思った。この著書の前半部は、複雑系の研究がどういった経緯で始まって今どのようなことが問題となっているのかという解説になっており、非常にクリアで面白いのだけど、ここにきてのトーンダウンは否めない。


池上先生がトークの質疑の際に言っていた「現実=理論」というこだわりがあるならば、「アートではダメだろう。アートこそ特殊だろう。池田亮二やジョン・ケージは面白いけど、それは別問題だろう」と率直に思った。


でも待てよ? ここで改めて思ったのだけど、池上先生の言う「現実」というのは、要するに「実践」とか「作品」というぐらいの意味なんじゃないのか?


だったら、池上先生がアートの話をしたり、文芸批評に興味を持ったり、「そうだ、チェルフィッチュも観にきていた!」から演劇の話を持ってきてもおかしくない。


複雑系と言うと、ついついウェブとか二コ動の話になるから話がややこしくなるのだ。


そう言えば、この著書では、池上先生は現代美術の作品を分析的に語っているだけだが、音楽家渋谷慶一郎さんや写真家の新津保建秀さんとのコラボレーションも行っている(RuggedTimeScape)。つまり池上先生は、学者にありがちな「理論=机上の空論」を乱発するのではなく、「理論構築と創作」を同時進行で行っている訳だ。理論がまずあって、作品がその理論のモデルとして作られるのではなく、あくまでも同時進行で「理論と作品」が立ち上げられる。ここがポイントだろう。


そう考えると文芸批評について言えば、やはり「小説と批評」が同時進行で書かれるというイメージなのだろうか。つまり保坂さんや東さんのように一人で小説と批評両方する必要はないけれども、小説家と批評家が同時進行で作品を立ち上げるというイメージだろうか?


ま、はっきり言えるのは、批評家が小説の単なる解説者であったり、小説のアーカイブ作りに終始するなということで、「それはわざわざ言われなくても分かっとる!」と福嶋さんも即答するだろう。ただ「理論と作品」が同時に立ち上がってくるというような状況を如何にして築くかについてはもう少し冷静に考えたいと思う。


福嶋さんについて言えば『神話が考える』という複雑系研究者やシステム論者を挑発する本を出してしまったのだから、その責任をとって池上先生のようなマッドサイエンティストと共同研究をやってみるのもいいかもしれない(笑)。


あと私が考えているのは、「江藤淳の《時評》」を見直すということ。池上先生に言われて改めて思ったけれども、批評家は現役の小説家をちゃんと見ているだろうか?また批評家の声が現役の小説家にちゃんと届いているだろうか? このあたりからやり直してみてもいいかもしれない。


神話が考える ネットワーク社会の文化論

神話が考える ネットワーク社会の文化論


動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ

動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ







   福嶋亮大トーク五番勝負!!!!!》




※ 受付開始については各書店HPをご確認ください。



   《第2試合》

5月17日(月)18:00〜 @京都造形芸術大学・人間館NA102教室(聴講無料)



京都造形芸術大学大学院・比較藝術学研究センター連続公開講座


A.A.A.(アサダ・アキラ・アカデミア)2010年度第1回


講演:ネットワーク時代のクリエイティヴィティ


   〜『神話が考える』をめぐって


講演者:福嶋亮大京都大学非常勤講師)


コメンテーター:浅田彰京都造形芸術大学大学院長)


※詳細はこちら

   《第3試合》

5月29日(土)19:00〜開演(18:45開場)@池袋コミュニティカレッジ3番教室



福嶋亮大×泉京鹿×太田克史(司会)


「現代中国の小説・文化(仮)




*5月10日(月)より予約受付開始
リブロ池袋本店リファレンスカウンターにて発券 お問い合わせ先(電話03−5949−2910) 

 《第4試合》

5月30日(日)19:00〜開演予定 青山ブックセンター本店



福嶋亮大×千葉雅也


現代思想は生き残れるか? 2010年代の思考の場をめぐって」




*近日中に店頭&WEBにて予約受付開始 
お問い合わせ先(電話03−5485−5511)

 《第5試合》

7月6日(火)19:00〜開演(18:30開場)紀伊國屋サザンセミナー



福嶋亮大×東浩紀×濱野智史×黒瀬陽平×渋谷慶一郎


「10年代の文化の地平」




*6月1日(火)より予約受付開始


 ■前売取扱い
 キノチケットカウンター(新宿本店5階/受付時間10:00〜18:30)
 紀伊國屋サザンシアター(新宿南店7階/受付時間10:00〜18:30)


 ■電話予約・問合せ
 紀伊國屋サザンシアター(03-5361-3321/10:00〜18:30)


※ 全てのイベントに関するお問い合わせ先 青土社営業部(03−3294−7829)












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