そうだ 古谷利裕フェア、やろう。


《最終版》(9月14日)




ポニョに会ったら伝えてくれ。


俺は嫁を大事にする男だと。

今日、定食屋で「本日の定食」を頼んだら、さんまと唐揚げとご飯があって、さらにカレーうどんまでついてきた。感動した。うまかった。これ以上ない幸せを感じた。そして今日が俺の人生のピークであると、ごく自然に感ぜられるのであった。


先日、半年ぶりに実家に帰ったら、姪っ子と甥っ子(ようするに双子)が日本語ペラペラになっていたのでびっくりした。「これ何?」と問うて「アンパンマンのぼうし」という答えを期待していたら、「それな、朝ガストに行ってお金払ったらくれてん。うしろのつまみ大きくしてかぶりな」って言ってきよった。まだ3歳だかなんだか知らないが、こいつらに年齢を抜かれるのも時間の問題だと、ごく自然に感ぜられるのであった。


そんな実家から早々に引き上げて、延び延びになっていたポニョを観に近所の映画館へ出掛けたらもう終わっていた。まだまだ夏だと思っていたら世間はそそくさと秋へとシフトしていたのであった。そして俺の夏は強制終了されたのであった。



A: ポニョは絶対美人になるよね。なんかエロいし。


M: あれは巨乳になる顔だよ〜。(※1)

巷の噂によれば、どうやらポニョはすこぶるいい女らしい。逃した獲物はデカイ! 俺の夏は終わったのか!? 改めて云う。



ポニョに会ったら伝えてくれ。


俺は嫁を大事にする男だと。(※2)

なんだ森見か。森見登美彦か!このクソ忙しい最中に何故森見なぞ読むか君は!! まったく理解に苦しむ! センスを疑う! 人生のセンスを疑う! これすなわち “へもい” なり!!



東京デスロックの多田淳之介さんのセンスを見習いたまえ。今日もリトルモアで観てきたけれど素晴らしかった。『演劇LOVE2008〜愛の行方3本立て〜』。皆様もぜひ。3本まとめて観ることをオススメします。今回の演目が『ドン・キホーテ』と『ジャックとその主人』で、多田さんの口から『トリストラム・シャンディ』という名まで飛び出したのだから、これはもう東京死錠から目が離せない。こちらもこの3作品はまだちゃんと読んでないから、早いうちに読んで臨戦態勢を整えねばなるまい。これは忙しくなってきたぞ!


ついでに言うと演劇界から目が離せない。古谷さんイチ押しの中野成樹+フランケンズをまだ観てないし、先日観てきた松井周さん(サンプル)は期待通りで、過去の台本をどっさり買い込んできたので、これから研究に取り組む予定だし、これはもう本当に忙しくなってきたぞ!!!



まあ「何故森見なぞ読むのか?」と問われれば、「森見には『トリストラム・シャンディ』に通じる魅力があるからだ」と答えてもよいのだけど、ちょっとカッコよすぎで森見に失礼だからやめとく。とりあえず「そこに森見があるからだ」ということにしておく。



さて、何の話だったかな? そうだ、書店員Sはへもいという話だ。なんだ奴は《古谷利裕フェア》に奔走する毎日と片づけに追われるうちに夏が終わってしまったと言わんばかりではないか。うそをつけ! そもそも奴に夏なぞなかったのだ。終わったのではなく、初めからなかったのだ!!


書店員Sの日常を枕詞に《古谷利裕フェア》の終わりを美しく告げようとしたが出鼻をくじかれてしまった。役不足もいいところだ。ええい、ちくしょう! この際、書店員Sなぞもうどうでもよいわ!!



さて、話を《古谷利裕フェア》に戻そう。



ノートはぜんぶ読めたかい? とわたしにきいたのでうなずくと、じゃあそろそろ話をしようか、と彼はいった。さっそくわたしが、このノートには書かれていないみたいだが、〈話しあい〉以後のきみたちはどのような行動をとったのかね、と質問すると、(中略)彼は、ノートのつづきはここに書いてあるよ、とわたしにむかってこたえた。(※3)


ここで言う〈話しあい〉とはすなわち〈トークセッション〉のことであろう。今一度当時の様子を振り返ってみよう。




なんかこれって阿部和重ABC戦争』みたいって、私は思う。いや別に阿部和重に拘らなくてもよくて、青木淳悟『クレーターのほとりで』を想起してもよいと、私は思う。それに「新潮9月号の青木くんはやっちまってるな」って思いを馳せても構わないと、私は思うのですよ。そもそも青木淳悟を読んだのは古谷さんの「青木淳悟論」を読むためだったし、保坂先生も青木淳悟について言及しているから、こんなところにわざわざワープロ打ちで書かなくても、青木淳悟も、こうやってグダグダ考えていることも下のダイアグラムにぶち込んでしまって全然構わないと思うのですよ。それから小島信夫先生についてはダイアグラムに書いていないけど、このなかに必ずいるのです。









8月26日付《第32版》より


トークセッション〉の時、こんな話もあった。小説家の磯崎憲一郎氏から次のような発言があったのだ。「僕と古谷君が犬猿の仲って書かれてますけど、全然そんなことないですよ。仲いいですよ」と。深い、実に深いお言葉である。いったい誰が犬と猿は仲が悪いと決めたのだ。犬に聞いたのか? 猿に聞いたのか? 言ってみろ! そこの人間ども! そんな人間の眼だけの勝手な主観、悪しき人間中心主義に染まった色眼鏡は即刻捨てよ! まあ、百歩譲って仲が悪いと見えたとしても、それはそう見えるだけという話だ。阪神タイガースの金本と新井をイメージするがよい。彼らは仲良しなのだ。(そうだ! アニキの新刊も読んで鉄人力を身に付けねば! こりゃ忙しくなるぞ!!)この図式によれば、もちろん次のようになる。磯崎憲一郎金本知憲=アニキ、古谷利裕=新井貴浩=戦線離脱である。新井選手には一刻も早い復帰を願いたいが、骨折という現実は受け入れざるを得ない。不吉だ。



不吉だ。さて、冗長な前説もこの言葉を引き出したことで多少の意味はあったと言えよう。話を再び《古谷利裕フェア》へ戻そう。




じつはこれからあかされるひとつの事件の予告にすぎなかったのである。このようにいうとなんだかプーンとインチキ臭さが辺りに漂ってくる気がするが、事実が結果的にそうなってしまったのだから仕方がない。ようやくその事件を語るべきときがきている。(※4)


もうすでにご存知の方もいらっしゃろうが、世にも恐ろしい、この物語の結末を心して読むがよい。




2008年8月28日偽日記


《古谷利裕フェア》はこれにて無事?終了致しました。
ご来店頂きました皆様、ご静聴頂きました皆様、


本当にありがとうございました。




(おわり、、、いや、おわらない、、、)




じつはこれからあかされるひとつの事件の予告にすぎなかったのである。このようにいうとなんだかプーンとインチキ臭さが辺りに漂ってくる気がするが、事実が結果的にそうなってしまったのだから仕方がない。ようやくその事件を語るべきときがきている。(※4)


もう言ってもよかろう。




保坂和志フェア》やります!!



『小説、世界の奏でる音楽』刊行記念


保坂和志フェア》開催!!!!!




保坂先生から送られてきた《選書リスト》計5枚



保坂和志先生に選書してもらった本をドカーンとまとめて並べます。乞うご期待!!





会期: 2008年9月29日(月)〜10月31日(金)


場所: ジュンク堂書店新宿店7階東側フェア棚



これはもうもうもう本当本当本当に忙しくなってきたぞ!!!



《フェア》に終わりはない。(終)






※1 『エクス・ポvol.5』《アミ&まみのお悩み相談室》より。
※2 森見登美彦『美女と竹林』光文社 帯より一部改変して引用。
※3 阿部和重ABC戦争新潮文庫 pp.100-101.
※4 阿部和重ABC戦争新潮文庫 p.116.










《ノート》




 [ 古谷利裕×保坂和志トークセッション ]

タイトル



  実作すること、と、批評すること

〜「世界/私たち」へと滲み出す「私たち/世界」〜




会場:ジュンク堂書店新宿店



日時:2008年8月28日(木)18:30〜20:00




 《私の感想》



古谷利裕が作家であるゆえん








率直に言えば、話は物凄く難しかった。批評/実作の対比、フレームの有無、つくるとはどういうことなのか、フレームは無い、フレーム/タッチ、タッチしかない、そうタッチだけしか。


こうやってキーワードをかい摘んで並べたところで、これを読んだ人が理解できるなんて書いている私すら思っていない。また昨晩の古谷氏は決して口数は多くなかった。いやむしろほとんど話さなかったといった方が正しいかもしれない。ただ昨晩のトークセッションを直に聴いていた私には、はっきりとした感触がある。古谷利裕という人がどういう人なのかが確信を持って理解できたのだ。


古谷氏は画家であり文筆家である。つまるところ作家である。その古谷氏が自らを作家であると名乗るということ。作家と名乗る以上、これだけは絶対に譲れないこと、こだわり抜いていることが、保坂先生の巧みなリードによって引き出された言葉、保坂先生の核心をついた言葉に追っつけるように、ぐっと噛みしめて語る古谷氏の言葉を観察していたら、古谷利裕が作家であるゆえんが、確信を持って理解できたのだ。


昨晩トークセッションに参加された方もされなかった方も今一度、古谷氏の著書『世界へと滲み出す脳』を手に取って読んでもらいたい。とりわけ《B章 絵画をめぐって》の2つの論考、『3 経験の発生の条件 どこでもない場所 岡崎乾二郎の絵画』と『5 フレームのこだま、宿命の光 小林正人「絵画の子」とバーネット・ニューマン「英雄的にして崇高な人」』を再読して頂きたい。



岡崎の言う、《正しい、正しくないという判断が前もってある規範なしで、その振る舞い自体のなかでだけ成立》するような、その都度、その都度での新たな《習慣の生成》とは、決して知覚(=現在)の、記憶(過去、教養、規範、習慣、技術、歴史、等々)からの切断を意味するものではない。記憶はきわめて重要である。その点で岡崎は、六八年的なもの(シュポール/シュルファスなど)とはまったく異なっている。ある程度は規範のディシプリンが必要だ(ちゃんとお勉強しましょう)ということでもなく、規範(既得権)なんかクソ喰らえ(反権威、アナーキズム)ということでもない。切断は、切断のためにではなく、新たな接続、新たな経験のために行われてるのであり、切断は記憶(想起)の豊かさに支えられることによってこそ可能になる。ここで問われているのは、知覚(現在)と記憶(過去)との間の新たな関係が、何か(つくること、みること)が行われるその度ごとに、あらためてうちたてられるということが可能であるような、可能性をひらいておく(条件を整えておく)ということなのだ。その根拠となるものは、記憶のもつ無時間性、つまり、想起がネットワーク状になって多方向へとひろがる可能性をもつということだ。そのためにこそ、絵画のもつ無時間性が重要なものとなる。


可能性がひらかれているからといって、それが実現するとは限らない。「ドアが開かれているからと言って、誰かが入ってくるとは限らない」(『現代思想』二〇〇三年六月号インタビューより)。その都度の《習慣の生成》という出来事が起こるのか起こらないのかは、その都度の実践の後に事後的にしか分からない。しかし、その条件だけは整えておき、可能性だけは常に開いておくこと。そしてあとは、自分自身の身体を使って、何度も繰り返しやってみることだ。そこで得られた無数の経験の反復(の記憶)こそが、あらたな経験(習慣の発生)を形作るための潜在的な力となる。岡崎の作品は、作家自身のそのような実践の痕跡であると同時に、そのような実践に観者を導き、促す装置でもある。それは、一人一人がそれぞれに行う「見る」という行為を通じて、一人一人の頭のなかで個別に起こるしかないのだ。




古谷利裕「経験の発生の条件 どこでもない場所 岡崎乾二郎の絵画」(『世界へと滲む出す脳』青土社 所収 pp.185-186.)より


作品は、内的関係を維持し、「待つ」という性質によって、生きている我々が必然的に捕らわれている「同時代」や「現代」を逃れる力をもつ。現在が我々「生きるもの」に強要する「同調」という強力な圧力から逃れる力をもつ。生きている者は、生きつづけたいのであれば、現在が突きつけて来る外的環境に対応するしかない。しかし作品は、現在とはまったく別種の時間をもつことが出来る。これが「作品」というもののもつ、もっともうつくしくして貴重な側面だと思う。作品は、やはりなにかしらの表現であり、コミュニケーションの手段ではあるのだろうが、しかしそれは、「現在」という時制の縛りから、あるいは時間そのものから逃れるコミュニケーションなのだ。


現在つくられている多くの作品は、「作品」というものが、「未だ、ここに居ない者」をひっそりと「待っている」ものだという、作品の最も貴重な側面を、あまりにないがしろにしているように、ぼくには思われる。現代作家の作品が、ただ「現代」を表現するだけのものであるのならば、そんなものは観るに値しない。小林正人の絵画は、画家によって掬い採られた光を、そのなかに留まらせ、たゆたわせながら、観者がその前にやってくるのを、ひっそりと待っている。




古谷利裕『5 フレームのこだま、宿命の光 小林正人「絵画の子」とバーネット・ニューマン「英雄的にして崇高な人」』(『世界へと滲む出す脳』青土社 所収 pp.227-228.)より






《古谷利裕フェア選書リスト》




第1期《入門篇》の棚の様子



第2期《ガチガチ篇》の棚の様子



第3期《ごちゃごちゃ篇》棚の様



古谷利裕『世界へと滲み出す選書フェア』リスト





日経新聞2008年8月24日(日)朝刊》より










スーパーマンになろう!
現代アート基礎演習





美術手帖 2008年 08月号 [雑誌]

美術手帖 2008年 08月号 [雑誌]



リサーチが甘かったです。岡崎乾二郎監修『スーパーマンになろう!現代アート基礎演習』(美術手帖2008年8月号)という書籍が発売されており、《ガチガチ篇》のラインナップに加わりました。古谷さんの『世界へと滲み出す脳』をこれから読もうとしている方。すでに読んで美術に興味を持った方。ぜひ、この機会に併せてお読みください。


作家の保坂和志氏が自身のホームページで『世界へと滲み出す脳』にコメントしています。
掲示保板


「今後、この本が批評の基準というか、そういうものになるんじゃないかと思う。」




葉っぱ64さんに《古谷利裕フェア》をご紹介頂きました。
ありがとうございます。


仲俣暁生氏が『世界へと滲み出す脳』に言及しています。


小説と文学をめぐるメモ〜「中空」という自由


写真家・福居伸宏氏に《古谷利裕フェア》を自身のブログにて紹介頂きました。


http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080717#p12


ありがとうございます。


戸塚泰雄氏制作の雑誌『nu』2号(p.91)に古谷さんの《偽日記》が紹介されています。


http://nununununu.net/


《偽日記》いろんな人に読まれてますね。




『nu』は当店でも販売を始めました。芸術書コーナーにあります。
こちらも、ご一読あれ!!







古谷利裕氏の《横顔》



偽日記()[※]というウェブ日記をはじめたのは、1999年の11月のことだった。ごく軽い気持ちではじめたのだったが、いつの間にかぼくの生活のなかでウェブ日記を書くということの比重は大きくなってゆき、日記の記述も増殖していった。


偽日記の反響は決して大きなものではないのだが、しかし時には意外な方からの反応をいただいて驚くこともある。そして、日記を書いていなかったら知り合うことなどなかっただろうという方々と知り合うことも出来た。そのようなことは、ウェブ日記を始めた頃にはまったく予想もしていなかった。これはとても幸福なことだ。


この本も、そのような幸福の一つとして形になったものだ。日記を読んだ編集者から、日記にあったこういうことやああいうことについて書いて欲しいと言われ、自分が過去に書いた日記を読み直し、だったら、こういうことやああいうことの方がいいんじゃないだろうか、というやり取りのなかで、大まかなアウトラインが出来た。この本は、偽日記を書きつづけながら、考えつづけてきたことの、ひとつのまとめのようなものとして書かれている。この本の三つの章立ても、過去に自分が書いてきた日記の内容から、ごく自然に決まったのだったと思う。


(古谷利裕『世界へと滲み出す脳』あとがきより)




※ これまでずっと()で書き綴っていたようだが、最近パソコンが壊れて()に移行したらしい。



古谷利裕氏の《絵》





「plants」 カラージェッソ・顔料・カンバス 91×91cm 2005








《棚づくり@頭のなか》←語呂はいいけど文法的におかしい




 建 築







フェアの本の納まりを寸法とって考えていると、どうやら私はむかし建築をやっていたらしいと思う。今はスケールも照度計も持ち歩いてなくて、こういった感覚はもうほとんど死んでいるし、そもそも建築をやめた時に、頭が真っ白になって建築のデザインがイメージできなくなったから、あのとき私のなかにいた建築は確実に死んだはずなのだ。もう少し正確に言えば、私のなかで建築のデザインが完成する以前、イメージを固めている途上で粉々に散ってしまったので、建築をやれと言われても私にはできない。つまり私の建築は「らしい」であって、「らしい」以上でも以下でもない。


ただ、こうやって納めているとわずかにまだ生きているらしい建築の感触が甦ってきて、もうちょっと出せるかなと突いてみたら、窓枠の納まり、床・壁の納まり、トイレの納まりなんかが、寸法や納まりはデタラメでぼやけているけれども滲み出てきた。









これぐらい出てくれば、あとは6階の理工書コーナーにいって納まりの本をちょっと覗けば、正確な図面がすぐに書けるのだけど、今はその必要もないから、こんな感じのぼやけたままでいい、と感じている。ぼやけれていてしょぼくてテストだったら0点だけど、この感触は確かで力強い。


せっかくだから、このぼやけているけど力強い感触で何かやってみようということで、フリーペーパーを書いています。(7月11日)









そして、《第1期》用 フリーぺーバーの原図が完成しました。(7月13日)



フリーぺーバー 表紙(第1面)



フリーぺーバー 第2面



フリーぺーバー 第3面



フリーぺーバー 第4面




※ photo 渡辺明《洛陽荘》「満月庵 床框と床柱の納まり」(『 JA54』新建築社 p.70. より)

フェア考・棚づくり考





ジュンク堂(図書館型)でも、フェアをやる場合は池袋リブロ「今泉棚」(書斎型)や往来堂(文脈型)を意識します。ただ、そのレベルには程遠い。現時点でのフェアの位置付けはこんな感じだろうか。



読書の入り口 工夫こらす 夏の文庫フェアで各社




全国の書店で恒例の「夏の文庫フェア」が始まった。大展開するのは新潮社、集英社角川書店の三社。特に若い世代の読者に「名作」を読んでもらおうというのがフェアの趣旨。ラインアップや各社の販促策を点検してみた。


まずは本の顔ぶれを見てみよう。三社の中で比較的「古典志向」を残すのが新潮文庫だ。話題は『蟹工船・党生活者』。メワーキングプア聖典モとして注目を集め今年に入って三十七万部を増刷、時ならぬベストセラーになっている。「夏の百冊」に入るのは実に二十八年ぶりだ。


だがフェアの主役は今やこうした古典作品ではない。恩田陸森見登美彦など現代のエンターテインメント作家の小説が優勢だ。他の二社も同様。集英社では浅田次郎村山由佳が各四冊と、存在感を示す。角川では『涼宮ハルヒの憂鬱』などライトノベル(イラストを多用した若者向け小説)も名を連ねる。今の時代、「何が『名作』かを考えるのは難しい」(角川書店の郡司聡文庫編集長)のだ。


リストの顔ぶれは毎年大きく変わる。新潮文庫の百冊のうち、今年は三十四冊が入れ替わった。『坊っちゃん』が消え、重松清『きみの友だち』が加わる。このめまぐるしい新陳代謝をみると「不朽の・・・」という決まり文句が時代遅れに思えてくる。


古典作品については表紙デザインを一新する販促策が定着しつつある。三文庫に入る『人間失格』。新潮文庫版はピンクの地に黒字で題名を入れた今風のデザイン。角川文庫版はフェアのイメージキャラクターに起用した人気俳優、松山ケンイチの写真が目を引く。漫画家が装画を描いた集英社文庫版になると、一見して太宰作品とはわからない人がいるかもしれない。


フェアは若い読者が本の世界に入ってくるきっかけ。だから親しみやすい現代作家の作品を増やし、表紙デザインも変える。角川書店は「10代のうちに読んでおきたいこの1冊」と題した小冊子を全国の学校にも配布している。


売り場展開は派手だが、営業上のうまみがそれほど大きいわけではない。「フェアでの売り上げは年間の文庫売り上げ全体の一割程度」(新潮社)。狙いはむしろ新しい読者作りにある。


それだけに本が粒ぞろいであるのは間違いない。大人の本好きにとっても食わず嫌いを返上するいい機会になるはずだ。


(文化部 干場達矢)




日経新聞2008年7月6日(日)朝刊より


 補 足



《書斎型》

80年代後半、特に人文書の展示・販売方法で注目を集めた池袋リブロの「今泉棚」は、店長の今泉正光氏が、みずから足繁く大学の教官室のドアを叩いて教えを乞い、隆盛を極め始めたポスト・モダンを中心とした現代思想の潮流に鋭敏なアンテナを張って、提案型の書棚をつくり上げたものだった。当時リブロの社長であった故小川道明氏は、著書の中で「図書館型というのは定型的な分類にもとづいた棚の構成であり、書斎型というのは、読みたい本、必要な本がジャンルを越えて問題意識系列で揃えられている棚づくり」(『棚の思想』影書房、1994年)と、「書斎型」書店としての池袋リブロの特長を、自信を持って述べている。


《文脈型》

90年代後半、「街の書店」の復権を目指して東京・千駄木に20坪の「往来堂書店」を立上げた安藤哲也氏は、雑誌を店の入口に配置する中小書店の「常識」を打ち破り、みずからの目で選び仕入れてきた書籍を、みずから「文脈棚」と名付けた書棚に配置してしていった。「本は、一冊一冊が完全に独立した作品であり、商品だ。でも、棚の中にそれらが並んで集合体となったとき、隣りあった本と本は、けっして無関係ではない」(『本屋はサイコー!』新潮OH!文庫、2001年)と、「棚の編集」の重要性を強調する安藤氏の棚づくりは、往来堂書店の予想を遙かに超えた売上実績もあって、全国的に注目されるようになっていった。


《図書館型》

そもそも読書とは、さまざまなメディアの享受の中でも、極めて能動的な行為である。書店へ出向くのは、確かに流行や提案を受容する場合もあるが、一方で独自の問題意識を携えてその答えを探す場合、さらにはみずからの問題意識そのものを発見しようとする場合もある。

むしろ「書斎型」より「図書館型」の方が、読者の側の能動性を必要とする分、おのずからそれを引き出しやすいと言えるかも知れない。例えば、「図書館型」のジュンク堂は、新聞記者をはじめとするジャーナリストが重宝がってくれる。彼らは、予期せぬ出来事に、常に素早く対応しなければならない。だから、流行や提案よりも、あらゆる事態に即応する書籍群の充実そのものを望む。




福嶋聡『希望の書店論』人文書院 2007 pp.73-74.


希望の書店論

希望の書店論


" 青木淳悟 "








今日の散髪は失敗したと思う。年相応にちゃんと老けて見えるカットになっているところが許せない。年相応の暮らしではなく学生の延長か短縮のような生活と身なりをしている私に対してちょっとやり過ぎではないかと怒りがこみ上げてくる。世間は容赦ない。「んっ!角刈りかよ。だいたい、平日のこんな時間に外をぶらぶらしているユニクロ着た角刈りのオッサンがどこにいるんだよ!」


なんて思っているのは私だけで、向かいにすわっているガキどもはこっちなんか見向きもしない。ビニール袋いっぱいに詰め込んだお菓子を食べるのに忙しそうである。「なんだ?こいつら?」


都心へと向かう急行電車はガラガラで、乗っているのはガキと毛が生えたガキと幼くみえるようになった大学生が数人といった感じだろうか。だいたい、この時間に電車に乗っているのはダサいNリュックを背負った「Nガキ」で、どいつもこいつもお塾、お受験と相場が決まっているというのに「なんだ?こいつら?」「放任主義か?」「最近、こういう子育て流行ってるの!?」


平日の午後4時15分。すんごくのどかで、すんごくまったりしていて、すんごく気持ちがいいはずなのに、あらまあ、完全に取り乱してしまっているではありませんか。


取り乱していると言えば、さっきまで時間を潰していたカフェで、チェアに腰かけながら、うとうとしてしまって、カックンカックン、かなりオーバーなスイングを伴って居眠りしていた自分の姿が、カウンターの向こうから注がれる清楚な感じのねえちゃんの冷たい視線とともに思い出されて、これまた胸糞が悪い。


胸糞が悪い。ああ、あっ、そうそう、いま、青木淳悟を読んでいる。『いい子は家で』。この作家はまだ若くて文体が固まっていないからだろうか、ぴょんぴょん文章が跳びまくる。あっちへぴょん、こっちへぴょん、母親ぴょん、兄ぴょーん、父親ぴょ、煙草ぴょぴょーん、建築確認申請どーん!「なんだ?こいつ?」


なんで読んでいるかと言えば、それは古谷さんの「青木淳悟論」を読むためで、悲しいかな目的を持って読んでしまっているのだけど、ぴょんぴょん跳んでいるのはこの人の文体のせいだけではない気もするような、そんなコンディションで、決してよいコンディションではないのだけど、ちょっと疲れていてブログの更新もサボってしまったのだけど、でも、これって青木淳悟を読むにはちょうどいいコンディションなんじゃないか、なんて思ったりもする。それになんか眠くなってもきたし、、、keio-inadazutsumiiiiiiiiiiiii,,,,,,,zzzzzz.......... piyo、ピョ、ぴょ、ぴょーん!!!



なぜか調布でちゃんと目が覚めて、準特急に乗り換えて、そしてまた青木淳悟を真面目に?読み続けるのだった。(7月4日)




※ photo by montrez moi les photos

《古谷利裕フェア》開催記録


古谷利裕『世界へと滲み出す脳』(青土社) 刊行記念フェア

《古谷利裕の滲み出す脳》




《アンコール開催の棚の様子》



世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢

世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢



場所: ジュンク堂書店新宿店7階人文書コーナー


会期: 第1期《入門篇》    2008年7月14日(月)〜7月27日(日)

    第2期《ガチガチ篇》  2008年7月28日(月)〜8月17日(日)

    第3期《ごちゃごちゃ篇》2008年8月18日(月)〜8月31日(日)

    特別企画:古谷利裕×保坂和志トークセッション
                2008年8月28日(木)18:30〜20:00

   ※ アンコール開催     2008年9月1日(月)〜9月9日(火) 





世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢

世界へと滲み出す脳―感覚の論理、イメージのみる夢


肝心の子供

肝心の子供


いい子は家で

いい子は家で


絵画の準備を!

絵画の準備を!












阪根Jr.タイガース


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